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牧師に社会経験は必要か



近頃こんなことが言われる。
“牧師が世間知らずで困る”“やっぱり社会経験のある牧師でないと”

ぼくもかつてはそう思っていたし、普通の会社ではないけれども、少しは社会で働いたことがあることで安心していた。

しかし、最近そのことに少々疑問を持つようになった。


なぜなら、たった2~3年の社会経験で、会社とか団体とかの組織がわかってたまるか、と思うからである。
“社会経験があって若い牧師がいい”というのは、かなり矛盾した考えだと思う。
後から牧師になるつもりで勤められるほど、会社というのは、正社員というのは甘いものではない。
(フリーターなら可能だけど)
2~3年で牧師になるので辞めるつもりですという人が、それを表明したうえで採用の面接に受かるとは思えないし、ぼくが人事担当だったらそんなやつは願い下げだ。

本気で勤めて、勤めて、それから方向転換して、牧師になる人というのはそう多くはない、というかほとんどいない。
例えば会社に勤めていて、40台半ばくらいの油の乗った時期に退職して牧師を目指したというなら、その人は間違いなく“社会経験がある”と言えるだろう。
そして、教会という業界の中では間違いなく“若い”
でも、そんな人はレアすぎるくらいレアだ。

だから、“社会経験がある”という場合、“60歳で定年退職して、第2の人生として牧師を目指す”人か、“2~3年勤めた(フリーターとしても含む)後で、牧師を目指す”人の2つに絞られる。
この2つのケースは割とありふれている。(ぼくのそのカテゴリに入るだろう)

でも、定年退職後の人は、それまでの経験が強すぎて、うまく自分を捨てられるとは限らない。
教会は会社ではないから、会社の論理だけでやるなら、かならず振り落とされる人が出る。
逆に、若者の2~3年の経験を“社会経験がある”というには、あまりにお粗末だろう。

それだったら、牧師としての牧会経験が長く、しっかり下積みをして育てていったほうが、後のためにはよいのではないかと思うのだ。
大学(高校)卒業後、すぐに神学校に行き、卒業したら牧会に遣わされる。
場合によっては30代半ばだが、牧会経験10年以上という、牧師だってありえる。
もちろん、多少常識に外れたところがあったとしても、それはその人が信徒の話をきちんと聞く姿勢さえ持っていればいくらでもカバー可能なのではないか。

そもそも、ぼくは“牧師になる前に社会常識を身につけていなくてはならない”という考え方に懐疑的だ。
だって、うちの教派における牧師は、半分出家みたいなものだもの。
というより、それを要求されるというべきか。

なので、むしろ“ちょっとくらい社会常識に欠けている”ほうが、ありがたいのではあるまいか。
支える周りがしっかりしていればいいだけの話である。
(牧師がいろいろな意味で超越している人で、奥さんがあっての牧師さんなんてのはざらにある話だろうと思う。その場合、奥さんの負担は相当なものなんだけど)


理想的な牧師を求めるよりも、“今いる牧師をどうやって使うか”とか“どうやって成長させるか”というほうに考え方を向けたほうが、生産的なんじゃなかろうか。

前にも書いたけれども、ぼくは“キリスト教は目の前の現実に対応するもの”だと思っている。
だから、減点法でないものねだりをするのじゃなくて、手持ちの札でどんな勝負ができるか考えようよ、ということなのである。

というわけでぼくは“牧師には社会経験はあまり必要ではない”と思う。
それよりもよっぽど、人の話を聴くこと、激さないこと、聖書を読んで黙想ができることのほうが大事なんじゃないかなぁ。

畑的交流

畑に行き、ナスに敷き藁を施す。
ついでに伸び始めたスギナを抜きつつ、大き目の雑草を排除。


その頃になると、隣の区画の人たちもやってきて、なにやら作業をしている。


と思ったら話しかけられた。
“その藁、何で敷いてるんですか”

マルチの代わりです。ととりあえず答えておいたけど、そうか、こういったところからもご近所さんとの交流ってあるんだよなぁ、と思いついた今日この頃。


そういえば、イモの芽がぜんぜん出てこないので、ちょっと気になっています。
ところどころは出ているのですが、他のところは全然・・・。

もう種イモは売っていないので、もし生えないとすると、何か別の対策を考えた方がよさそうな気がしてきた。

芽が出た

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少々早く植えすぎたのか、ちょっと寒い日が続いたり、留守にしたりと、かまってあげなかったからか、植えつけたキュウリとトマトの9割が枯れてしまいました。






しかし、今日は、だいぶ暖かくなったし、しばらく気温も安定しそうなので、もう一度植えつけにチャレンジします。
家の中で大きくしたナスもこの際植えつけることにします。

CIMG0499-1.jpg
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上からキュウリ、トマト、ナス。

ナスは割と大きくなっているので期待大。
キュウリとトマトはちょっと目が離せない感じです。



畑を見回ってみると、あちこちでこないだ植えた種が芽を出していました。
とうきび
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枝豆
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んで、このちっこいのがほうれん草です
CIMG0495-1.jpg

ついでに草むしりをしっかりして、毎朝見回ることを誓います。
しばらく雨が降らないようなので、水を持っていったほうがいいのかなぁ。

目の離せない毎日が続きそうです。

楽に生きる

去年の今頃、ぼくは“楽に生きたい”と願っていた。
落ち込んだり浮いてみたり、無理やりにテンションを高めてみたり。

人前に出るのがすごく怖くて、大礼拝も遠慮しようとしていた。
誰も彼もが敵に見えたし、実際にそうだった部分もある。
仕事に関しても、半分はオート自分が作動してこなしていた。

“自分らしくありたい”とか“本当の自分はこうじゃない”とは言わない。
とにかくしんどくて、楽になりたかった。
それが自分で招いたことだとしても。



「若い頃の苦労は買ってでもしろ」とよく言われるし「若い牧師はもっと開拓伝道とかで苦労しなくては強くなれない」とも言われる。
でも、そうやって心をいじめて、苦労に耐えて、嫌いなことをしていくと、人は蝕まれる。

前にも少し“呪い”について書いたけど、これらの言葉も一種の“呪い”だろう。

それらの言葉は正しい。
そして、彼らはそういった人生を生きて生きて、生ききってきた。
けれども、その言葉が人に向けられる時、それはその正しさゆえに“呪い”の言葉となる。

だって、言い返すことも、言い訳することもできないもの。

ぼくは「苦労は買ってまでする必要はないし、自分と同じ苦労は他の人には味わってほしくない」と思う。
それに「人の気持ちは最終的にわかることはできないし、自分の気持ちを簡単にわかってくれる人などいない」と思う。
いや、一時的に共感はできても、最終的には理解し得ないのが他人だ、ということか。

能力とか、愛情とか、そういったものは“苦労したほど伸びる”という神話がある。
いじめていじめて、たたいてたたいて、そうやって立ち上がってきたものが本物だというのだが、ぼくはまったくそうは思わない。

仕事だって、気分悪く仕事をするより、気分よく仕事をしたほうが、自分のできる限りのことをしようと思うし、新しい技能を修得してでも貢献したくなる、そういうものだ。
愛情だってそう。
試練を与えて、ウソついてみたり、振り回してみたり、試してみたりして立ち上がってくるのが本物の愛情ではない。
相手の気持ちを試すためにする、その行為を愛情とはぼくは呼べない。
むしろやさしく見守り、お互いにおずおずと働きかけていくような、そうしないと愛情は育たない。



「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか」

梨木 香歩の小説「西の魔女が死んだ」の中の一節。

誰しも、少し自分が楽になれる場所であったほうが、仕事も愛情も、体調も何もかも、すべてにおいてパフォーマンスがよくなる。
その点、生き物はよくわかっていると思う。

先日、キュウリの苗を植えたのだけれども、上手く根付かずに枯れてしまった。
時期が早かったのもあるだろう。
予想外に霜が降りたのもあるだろう。
そうかと思えばクソ暑い日が続いて、水が足りなかったのもあるだろう。

でも、その環境はキュウリにとって楽な場所ではなかったのは確かだ。
霜がよらないようにキャップをしてもよかったし、水をやってもよかった。
(札幌に行っている間だったのでできなかったんだけど)
ちゃんと育てることができなかった。



もちろん、人間は自分のことはわからないから、仕事をしているうちに、人とつきあっているうちに、だんだんと自分のことに気がついていくのだろう。
だけど、その途中で、“こうしなくてはいけない”という思いから、自分の心の底の、身体の中の声に耳を傾けることができないと、だんだんと弱っていく。
根付かなかったキュウリの苗のように。

だから、多少楽になるために、生活の場所を変えるとか、人付き合いを変えるとか、そういった対策を取ることは、別に悪いことではないと思う。
むしろ、自分にとって不快な対応しかとらない人からは全力で遠ざかればいい。
それが許されているのだから。



我慢は別に美徳ではない。
“楽”に生きると言うと、何となく悪いことのように聞こえるけれども、それは決して悪いことではない。
むしろ、人が生きるために必要なことだ。

それに対して“逃げるな”とか“逃げてはいけない”という人もいるけれども、そいつに関しては全力で無視していいし、そういう人からは遠ざかったらよいと思う。
“逃げる”のではなく“戦略的撤退”ですから。

自分が立てる場所まで、少しは楽に立ち上がれるところまで下がるのは逃げじゃない。戦略的撤退です。
そして、自分が楽になって、立ち向かえるようになってから、また立ち上がればいい。
それに、できないものはできないのです。
別に、みんなができるようにならなくてもいい。
あなたができるのなら、フォローしてあげればいいじゃない。
と、思うんだよね。

だからみんな、もっと“楽に”生きてみようよ。
少なくとも、去年の今頃より、ぼくはとっても楽に生きています。いじょ。

曽野綾子さんの書いた文庫本『老いの才覚』が、結構売れているようだ。

その中で「くれない指数」という言葉が紹介されていた。

他人に対して「○○してくれない」という不満をもち、また「○○してくれない?」って依存することがそれだとか。
それが多くなってくると、老人としてはどうなのか、というような話。

でもこれ、別に老人だけじゃなくて当てはまると思いませんか。

思い返してみれば、何となく不満な時って、だいたい心の奥底に「あの人がもっとこうしてくれればいいのに」とか、「なんで手伝ってくれないんだろう」とかの「くれない」がうようよしているような気がする。
でもって、「手伝ってくれない?」と声をかけても、なかなか手伝ってもらえなかったりして、ますます不平不満がたまるという悪循環。
あまりに自責的なのもどうかと思うけど、気をつけないとどんどん他責的になってしまうのだなぁ、と思ってしまった。

「なんでわたしのことをもっとわかってくれないの?」
「最近の若いやつはなんでこうしないんだ」
「どうしてわたしの言ったとおりにしないんだ」
「どうしてもっとみんな自主的に動いてくれないんだろう」

わぁぁぁぁぁぁ。
聞いてて、もっともかもしれないけど、しんどくなってきた。

これを聞かされる方はたまったもんじゃないな、と正直に思う。

もしかして、世の中の不満のほとんどが「くれない」なんじゃなかろうか。

実際、何かを始める時には“自分で全部やっちゃう”という覚悟がないとできないなぁ、と思う。
考えてみれば“一人になってもやる”という覚悟を持って始めたプロジェクトには、不思議と手伝ってくれる人がいたりするものだ。

誰かが手伝って“くれる”ことを期待するんじゃなくて、誰かのことを手伝“う”ことから始める方が精神的に健康になれるのだろう。
実際、誰かにお願いするより前に、こちらから何かをしてあげた人にはお願いを聞いてもらいやすい。

だから、賄賂がなくならないのだろうし、計算高いと思われても仕方がないけど、事実だと思う。

というよりも、人は、誰かに無償で、思いがけずに何かをしてもらうことを嫌がる。
お返ししなきゃまずい、と思うから。
健全な反応だけど、やっかいなもの。

まぁ、押し付けにならない範囲だったら、どんどん人に・社会に貢献していったらいいと思う。
その分、社会で誰かが少しでも楽になれるのだったらどんどん人に与えていったらいいと思う。
その方が、自分の周りの雰囲気が良くなって、自分も楽になるし。

ただし、見返りを期待してはいけません。
「○○してあげたのに、お返ししてくれない」では、「くれない指数」が急上昇です。
もちろん、相手が返してくれるのなら、受けましょう。
だって、その贈り物は、受け取られないと贈り物にはなりませんから。
惜しみなく与えましょう。
そして、贈られたなら受けましょう。

“受けるよりは与える方が幸いである”というパウロの伝えたイエスの言葉は、非常に大事だなぁと思う今日この頃です。

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北のサムエル

Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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