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人生はミスマッチ

大学生の就職活動が始まるのは早い。
早ければ3年生のこの時期から活動を始めている。

自分はまともな就職活動をしたことがないのでよくわからないが、その中には適性検査だったり、エントリーシートだったり、説明会だったり、面接だったりと、さまざまな場面があり、それを突破して彼らは就職をすることができる。
もちろん資格のいる職業の場合は、資格をとり、試験を受けて採用、ということだってあるだろう。

ぼくは紆余曲折を経て、生まれた地を離れて、この北国で牧師をしているが、少なくともわかっているのは“ぼくには牧師の適性が無い”ということである。
どう考えても、向いている理由より、向いていない理由のほうが多く思いつく。
怒りっぽいし、わりと人見知りな方だし、言葉遣いは乱暴だし、頑固で尊大と、よくもまぁ、これほど向いていないことをしているもんだ、と思う。

大学のサークル仲間などは、一瞬固まった後、爆笑だったし、ぼくの母教会の信徒たちは喜びより驚きのほうが強かったように思う。
“あいつは向いてないからやめさせろ!”とありがたいことに方々に言ってくださったご仁もいた。

でも、それで多少の不便を感じたとしてもそれなりに楽しくやれている。

人生それでいいのである。

「わたしたちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。それでもけっこう幸福に生きることができる」(内田樹)

間違いの無い人生など存在しないし、全部うまく選択できるわけも無い。
間違いをしないようにと身を固くしてるより、間違えてもいいからやってみるほうがいい。
それで、間違えて落ち込まなきゃなおいい。

自分は都会で生まれて、特に農作業を見てきたわけでも、手伝わされたわけでもない。
趣味的に、梅干を作ったりベーコンを作ったり沢庵を作ったり、家庭菜園を本格的にやったりしているが、古くからの友人たちは、ぼくがそういったことを趣味にしているのが信じられないようである。
でも、やってみたら面白かったから、以外の理由が見当たらないし、スパイスの調合を考えたり、肥料の頻度を考えたりするのは楽しい。
それに、野菜も手作り食品も、自分で作ったものは格別である。

作ってみてから気がついたが、こういったものは、実は普通に買うほうが安い。
だけど、その手間隙かけたこととか、過程も含めるとpricelessなのである。

はっきり言ってしまえば、自分に向いているか向いていないかを悩んでる時間がもったいない。
仕事だったら頼まれたらイヤとは言えないことも多い。
失敗したとしても、明らかに向いていないぼくに頼んだ人が悪いので、その辺はもちつもたれつで行こうじゃないかと思う。

とりあえず頼まれたり期待されたりしたことをやってみるしかないのである。
頼られるとがんばりたくなっちゃうし。

それに、絶対に自分に適正があって、向いてる唯一無二の仕事なんて無い。
もし向いている仕事をしている人がいるように見えたら、多分その人は、時間をかけてその仕事に向くように、自分を変えてきたんじゃないかなぁと思う。

だから“人生はミスマッチ”だけど、“そのうちマッチしてくるから心配すんな”ということなんである。
まぁ、何十年後かは知らないけど。

ということを、今の若い人たちと教会で付き合いながら思ったのである。まる。

非国民

“非国民”という言葉を聞くと、戦争を思い出す。
・・・というより、聞いたことのある“戦争の話”を思い出すというべきだろうか。

戦時中、女性がスカートをはき、口紅をつけていると言われたそうだ。
「そんな格好はやめるべきだ。前線で戦っている兵隊さんの苦労を思うべきだ。それがわからないあなたは非国民だ」

今、この言葉を聞いたあなたはどう思うだろうか。
ぼくは、このロジックが“おぞましい”と思う。

そして、戦争は終わり、自由の時代がやってきた・・・ように見える。

が、こういった言動は形を変えて生き残っていると思う。
今だったら「節電しないあなたは非国民だ」だろうか。

とある教会に赴任しているときにかけられた言葉だ。
「おれたちは、週に六日働いて、日曜に教会に来ている。毎日休みがない。そんな人たちはたくさんいる。だから牧師が休みをとったり、ダラダラしているのはいけない。そんなやつは牧師ではない。そんな資格はない」
「信徒の中には、年金暮らしでかつかつの生活の中で献金をしている。あなたは牧師で、その給料は献金の中から支払われているのだから、娯楽にお金を使ってはいけない。そんなやつは牧師ではない。」
「牧師が独身で、若い場合は、可処分所得が多いのだから、給料の半分は教会のために使ったり、慈善事業のために寄付をしたりするべきだ。信徒の中にはかつかつの生活をしている人もいるのだ。それができないやつは牧師になるべきではない」
「牧師が車を持っているのはぜいたくである。百歩譲って車を持つのなら軽自動車にするべきだ。信徒よりいい車を持っているのは、いい牧師ではありえない。」

これらの言動の中に、先ほどの「非国民だ」という言葉と違うロジックがあるなら教えてほしい。
今の節電だってそうだ。
「ほしがりません勝つまでは」という言葉と、何の違いがあるだろうか。

自分がそのように感じて実践するのはいい。
ただ、それを他人に要求するべきではない。
それは、どんな社会的な立場がある人相手でも変わりはない。

ぼくはそう思う。
これらの言葉の背後にあるのは、自らの“絶対正義”である。

例えば、牧師がその言葉によって感化され、生活をつつしみ、給料の半分以上を寄付し、軽自動車に乗っていたとしたら、彼は言うだろう。
「おれは、あいつが若い時に言ってやったんだ」と。

逆に、彼がその忠告に耳を貸さずに何ほどか失敗したとしよう。
そうすれば彼は言うだろう。
「俺の言うことを聞かないからだ」と。

別に失敗しなくとも、言うことを聞かなかったとすれば
「あいつは、もののわかっていないやつだ」と周囲の人に言えばいいだけの話。

自分はいつも正しい位置をキープしていられる。


そんな、高みから降りてこないような言動が、今教会の中にはびこっているのではないか。
そんな牧師の扱いを見てれば、“牧師になりたい”などという奇特な人間が出てこなくて当たり前ではないのか。
もし、万が一いたとしても、そんな状況の教会に放り込まれれば、精神崩壊するんじゃね? と思うのである。

今日の福音書は、種まく人のたとえだった。
通常、このたとえは、「まかれた地(人)がどういう土地(人)かが重要であり、わたしたちはいい土地であるようにしましょう」という言葉だ。
でも、今日話をしたのは、わたしたちがもし、種まく人だとしたら、自分の蒔いた種がどんな地に落ちるかはわからない、という話だった。

なるほど、と思った。
人生は、絶対に、思い通りにはならず、自分がどう思っているかということなど吹き飛ばしてしまうかのような残酷な結果になることもあるものだ。

そして、世界はぼくが思っているよりも広く、ぼくを包み込んでくれる。
ぼくがどう思っているかに関わらず。

世界は絶対に自分の思い通りにはならない。
だからこそ、世界は面白い。
そして、生きている甲斐がある。

ぼくはそう思う

育った環境に物申す

大学生たちがケンカをしている。
その中身は「田舎モノ!」と言ったとか言わないとか。

話だけ聞くと些細なことに違いないが、いろいろと考えることもあった。

なるほど、確かに言われたその子の育った場所は田舎である。
北国の中でも、“ど”がつくほどの田舎であり、村中全員顔見知り、経済状況やらなんやらまで全部知っていて、学校の一学年が5人とか10人とかそんな環境である。

事実としては、言った子の育った環境と比べれば田舎モノであろう。

しかし、言った子の環境だって、別にすごい都会というわけじゃない。
大都会近郊の町で、人口10万人ほど。
そこそこの町だが、都会と呼ぶには差しさわりがある。

首都圏で生まれ育ったぼくからすれば、結論「どちらも田舎モノ」なのである。
“めくそはなくそ”“五十歩百歩”という言葉がぴったりだ。
(誰かわかっても言っちゃだめですよ。念為)

ただし、ぼくは“彼らのことを田舎モノと呼ぼう”とは思わない。
というより、そんなこと考えたことがなかった。
言ったところで変えようのないことについて指摘したところで何になるのか、と思うからである。

何かで書いたような気もするけど、人は“どこに・いつ”生まれるかを選ぶことができないのだから、それに関して優劣をつけてあれこれ言うのはナンセンスだと思う。

人はそれぞれ育った環境が違う。
それぞれによかったところ、悪かったところもあるだろう。
自分には価値が見えなくても、他の人にはすばらしい価値があるものだということはよくある。

それに、何をいいと感じるかも違う。
それにはいろんな原因があるだろうし、本人の感覚の問題なんだから、それをとやかく言っても仕方がないと思う。

ぼくは首都圏で生まれ育ったけど、別に都会っ子として洗練されたファッションセンスを持っているわけじゃないし(どちらかというとくそダサい)、新宿も渋谷も行ったことがあるけれども、詳しくはないし、おしゃれなお店は苦手である。人ごみも苦手である。
今の音楽シーンに興味もないし、テレビもあまり見ない。
かと言って、外に出かけるわけでもないし、暇さえあればひきこもって本を読んでいる。
んで、北国まで来て何をやっているかというと、畑を耕したり、味噌・梅干・漬物・ベーコンなどなどの手作り食品をのんびり作ったりしている。
子どものころはむしろひ弱なほうだったけど、筋トレにいそしんだり、朝ランニングをしたり、今はそちらのほうが性に合っているというだけの話である。
はっきり言って、大都会の教会よりは、今いる地方の教会のほうが性にあってるなぁと思っている。
ただ単に都会は性に合わないだけなのであるが。

最近、定年後の田舎暮らしがブームらしくて、北国の地方の村にも流入する人がいる。
彼らにとっては、自然が豊かでいいところなんだろうけど、ぶっちゃけ彼らはそこに都会の暮らしを持ち込んでいるだけにしか見えないことがよくある。
そこの村の人間関係にどっぷりはまろうとしたらものすごく気苦労が多いものである。
少なくとも、よそ者のうちはかえって快適なのかもしれない。
でも、彼らにその中で育った苦労はわからんだろうと思う。

でもまぁ、「そういう人たちにはわからない」と言って壁作ってても仕方ないんだけど、それは置いとく。
だって、それはベクトルが違うだけで「田舎モノ!」と言う人たちと変わりがないんだもん。

さてさて、ぼくがちょっと問題だなぁと思ったのは、「田舎モノ」という言葉を発した子の方である。
本人が意識しているのかはわからないが、ぼくには少なくとも“明確に悪意のある”言葉のように聞こえる。

何度も繰り返すけど、本人にどうしようもない状況に関して指摘したりバカにしたりすることは、ものすごい攻撃で、一種の呪いである。

これに対処する方法はぼくは唯一つだと思う。
それは“全力で遠ざかる”ことである。
それを発した人間が、気がついてそれをやめるということはほとんどありえない。
少なくともそれを“事実だからいい”と思っている限りは。
言った人間にとってはただ一度のことだが、少なくとも聞いた人間にとっては一度の出来事にはなかなかならない。
その本人を目の前にするたびに、その言葉がリピートされるような気がしてしまうから。

そうやって、人は呪いにかけられていく。
だから、呪いにかからないように全力で遠ざかるのがいいとぼくは思う。

最近、この手の“呪い”を使う人たちに多く出会うようになった。
仕事柄なのかもしれないけど、でも、教会の中にこの手の人はとっても多い。
立場上、全力で遠ざかることのできない人もいるので、ぼくの頭の中には、この手のプチ○○さんがたくさん住んでいて、ぼくが何かをするたびに口うるさくやかましく言うので、最近ちょっと困っている。
だから呪いって言うんだけど、なかなか解除する方法が見つからない。
ドラクエとかだったら、教会に行って呪いを解いてもらえるんだけど、現実の教会は、むしろ呪いばっかり増やしているのは気のせいか?

育った環境が違うってことは“すごい”ことなのに、だから人は多様なのに、その多様性を受け入れるんじゃなくて、ある一定の枠にはめようってのは、なんて“無粋”なんだろうなぁ。
と、いろいろ考えてしまった6月なのである。

選ぶこと、捨てること

自らの人生を振り返ってみると“あの時こうしていたら今ここにはいなかったかもしれない”というポイントがいくつかあります。
なぜ、そのように答えたのか、行動したかは、今では思い出せないことも多いのですが、良きにつけ悪しきにつけ、ぼくがここに立っているのは、数多くの選択の結果です。

もし一つでも違う選択をしていれば、ぼくはこの場所に立ってはいないのでしょう。

わたしたちは、何かを決断する時、何かを選ぶと同時に、選ばなかった何かを捨てています。
例えば札幌に行く時、汽車で行くことを選ぶと同時に、バスや自家用車や、あるいは自転車や徒歩で行く可能性を捨てています。
わたしたちは生きている以上、何かを決断しないわけにはいきません。ということは、何かを捨て続けて生きているのです。

“もしあの日、ここに立ち寄っていなければ、今の自分はなかったかもしれない”
人生の分岐路は、道を右に曲がるか左に曲がるかという、ほんのささいな選択の違いで、決まってきたりするものです。
結果を見てから選ぶことはできません。
望むと望まざるとに関わらず、その選択の結果は降りかかってくるのです。必ず。

とあるブログでこんな文章を見かけました。
「日本では、第三子妊娠の場合は70%が中絶されてゆきます。二人兄弟で、学習塾に通わせてもらい、私立大学や遠く離れた大学に通い親から仕送りなどを受けてきた場合、私たちはそうした兄や姉、あるいは弟や妹のいのちの犠牲の上に、豊かな教育機会を与えられてきている可能性があるわけです。」

ぼくはこの文章に非常な違和感を覚える。
なぜなら、その選択は、自分でしたものじゃないから責任の取りようがないし、そんな選択が行われていたということすら知ることがないかもしれないからだ。
こんなことを言われても答えようがないからだ。

この方は、これを“構造的罪”だと言う。
ふざけるな。
“罪”ってなんじゃい!

中絶が罪、というのならまだわかる。(あくまで“まだ”ね。)

でも、それを子どものほうに負わせるのはどうなのよ。
だって、その子は、そのような両親のもとに生まれてくることを選べないんだよ。

ぼくは、自分が答えようがないこと、責任の取りようがないことについての責任を追及するというのは、一種の呪いだと思う。
自分で選んだのじゃないことに、責任の取りようがないことについて考えることは、自分の魂をすり減らすことだ。
自分で自分を“罪がある”と認定して、贖罪するというのは、美しいようにも見えるけど、ぼくには不毛な行為にしか見えない。
そんなことをしても誰も喜ばないんじゃないかな。
そんなことを言い出した人以外はね。

ぼくたちは自分の生まれる時、場所、地域、階級、その他諸々の条件を選ぶことができない。
だけれども、その条件で生まれた以上、その条件でやっていくしかない。

ぼくが日本で生まれたこと、会社員の家に生まれたこと、20世紀に生まれたこと、長男だったこと、これはぼくにとっては選ぶことができないこと。
そのことについて、責任など取りようがない。
選ぶことさえできていないんだから。

どうやって生きてきたかについては、その結果を引き受けることによって一応の責任を果たすことになるけれども、初めの条件についてはどうしようもないではないか。

だからこそ“どう生きるか”ということが大事なのである。
「生まれたところや、皮膚や目の色で、一体このぼくの何がわかると言うのだろう」

畑の管理いろいろ

大分天気もよくなって、気温も高め(でも30℃とかなめてる)なので、畑の作業がはかどります。

まずは、元気の無いキュウリのネット立て。
行灯を外して支柱を立て、ネットに蔓を誘引します。

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あまりに元気が無いので、3日ほど前に液肥を施しました。
うまく伸びてくれるといいのですが、べと病の予感もするので、目が離せません。


そして、トマトの花が咲いてきたので、トマトトーンにてホルモン処理をします。
トマトは一番花に実がつかないと、今後の実つきが悪くなるのです。

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さらに翌日、少々曇り空ですが、とうきびを間引きして一本立ちにした後、中耕、追肥です。

まず、畝と畝の間に化成肥料をまいて
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そこを耕します。
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耕した肥料の混ざった土をとうきびの根元に寄せておきます。
とうきびは背が高くなるので、風などで倒れるのを防ぐためでもあります。
あと、めちゃめちゃ肥料を喰うので、しっかりやっておかないと栄養不足で倒れますから。

というわけで完成。
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さらにじゃがいもも間引きをしつつ、土寄せ。
かわいそうですが、間引きしないと小さなイモばかりになってしまいます。
とは言え、小さなイモもほしいので、1本立ちのと、2本立ちのとを作ります。

そこらじゅうから生えている野良イモは、かわいそうだけど抜きます。
実を見たら赤かったので、アンデスレッドだろうか?

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というわけで汗だくになりながら作業終了。

そしてなんと、もう枯れるかと思っていたキュウリに花が咲きました!!
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何とかなりそうなので、しばらく1週間ごとに液肥を施す方向で行きたいと思います。
とにかく伸びてくれないと・・・。


それから少し心配なのがほうれん草。
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かなり間引きをしたのですが、成長におっつかない上に、どうやらべと病にかかっている株があるようです。
耐病性の品種にしたのですが、原因は密集のし過ぎの上、雨続きで、地面が乾く間もないことだと思われます。
毎日間引いて、信徒さんに配ったり、味噌汁の具にしたりと大活躍なんですが、これ以上調子が悪いと、一気に抜かなきゃならないかも。

さらに、小さいくせにとう立ちしつつある株もあるので、しばらく毎日経過を見守らなくては!

やっぱり、「夜昼寝起きしているうちに収穫」とはいかないようです、イエス様。
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北のサムエル

Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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