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直に冠を被らず

教会において、ちょうど一回りくらい下の若者たちと活動を共にすることが多い。
自分の年齢的なことはさておき、自分と同世代の人がきょに少ないこともあるのだが、同世代の人と話が合わないってこともある。
自分の幼児性をさらけ出してるようでいやだけど。

最近、教会において、教養的なことを口にしても、わかってくれることが少なくなったように感じる。
これは、決して年齢的な傾向ではないと思う。

とある教会で、中高生のキャンプの時、聖餐式の説教を担当させてもらった。
中高生が増えた以外は、その教会のレギュラーメンバー。
御多分に洩れず、平均年齢70歳である。

少しは笑っていただこうと思って、少しネタを折り込んだ。
若い衆にはわからないかもしれないが、「直に冠を被らず」とやったのである。
しかし、誰も笑わなかったし、後でのツッコミもなかった。

後に原稿を見た(説教要旨を教会のサイトに毎週あげてる)父から、「お前、わかって使ってるんだろうな」というツッコミをもらったのみである。
スタッフたちに確認したところ、「そういうことわざがあるんですね」ということだったorz

誰も「梨下に冠を正さず」という故事を知らんのか?
志ん生の落語のネタを知らんのか?

マジか、と思った次第なのである。
この手のネタが使えないとなると、説教の時の話が限られてしまうような気がする。
少なくとも、世代間を横断して笑えるようなネタを提供するのが難しい。

それって、福音を、世代を越えて伝えるのにとっても障害になるのではないだろうか。
そんなことをつらつらと思ったのである。
杞憂ならいいのであるが、世代間の言葉が通じない傾向は、若ければ若いほど顕著であって、かなり気になっているのである。

がんばろ。
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雨の中、傘をささずに踊るのか

「雨の中、傘をささずに踊る人がいてもいい。自由とはそういうことだ。」(ゲーテ)

人は自分にとって不可解な行動をする人を見ると、眉をひそめたり、注意してみたり、怒ってみたりするのだと思います。
もちろん、それは自分だって例外ではありません。

ですが、とりあえず、“よくわからん”“理解不能”と思ったときは、この言葉を思い出すようにしています。
もしかしたら、その行動にはその人なりの必然性があるかもしれないし、もしかしたら単なる思い付きかもしれないし、でも、それが不思議と楽しそうだったりする、そんなこともあるでしょう。
ぼくにとって実害がなくて、本人が楽しそうであるならば、それをやめさせるべきではないと思います。

誰しもが自由であるのだから、別にどんな奇行をしていても、それをとがめだてする権利は誰にもないことになります。
それは自分にとっても同じこと。

冒頭に上げたゲーテの文章、この2文の間に「だけど、ずぶ濡れになる覚悟はしなくてはいけない。ずぶ濡れになったあと、人に服を貸してくださいとお願いして断られても文句を言ってはいけない。しぶきを飛ばして回りに迷惑かけてはいけない。」というのが入っているものも見つけました。

なるほど、確かに自由だけれども、迷惑はかけるなよ、ということですね。
これも“自由”ということの一つの側面かもしれない。

それにね“どんな人間も、その人なりに論理的に、そして合理的に行動する”ものである、と、ぼくは思います。
“よくわからん”“理解不能”と思ったとき、そいつが“頭がおかしい”と決め付けることは簡単です。
でも多分、いや絶対、本気で“頭がおかしい”人はそういないはずです。

誰もが“自分にとっては論理的”なんです。
その論理が、はたから見ると破綻していたとしても。

だから一応、反射的に反応する前に、その人の持っている理論について考えてみます。
すると、それがおもしろい。

もし、それで自分の仮説が当たっていたとしたら、それはとっても達成感がある。
もし、それで自分の仮説が外れていたとしたら、それは“人間というもの”に対しての深い勉強になる。
そう思うのです。

少なくとも“世の中に論理的じゃない人間などいない”と思ってたほうが、色々、後々、ためになるんじゃなかろうか、と思うのです。

支援とは何ぞや?

年末年始に、被災地「釜石」へ行ってきた。
自分を含めて5人と一緒にでこぼこ珍道中。


もちろん色々あったのだけれども“支援”ということについて色々と考えさせられたことをつれづれながら書いてみる。

ぼくは、こういった支援というのは“眉間にしわを寄せながらやる意味はない”と思っている。
やるほうもしんどいし、受けるほうもしんどい。正直息苦しい。
まぁ、マゾなら別だけど、ぼくには向かない。

“支援に来たんだから”“遊びに来たんじゃないから”と、まじめな人は思っちゃうんだろう。

「観光に来たんじゃないから、お土産を買うなんて」
「支援しに来たのに、遊んじゃいけないんじゃないか」
「何でまじめに仕事をしないのだ」

どこのボランティアセンターでも、多分こんな会話があるに違いない。
でも、ぼくはそんな「支援に来た」という“大真面目”な感覚に、とっても違和感を覚える。

釜石に限らず、どこも、直接被災していなくても、東北各地は影響を受けている。
だから、例えば、現地でお土産を買うことによって、その地の経済が少なくとも回る。
人が行くことによって、雇用が増える分野もある。

ぶっちゃけた話、人が行って住むだけで、多少なりとも効果はあるんじゃないかと思う。

東北のほとんどの都市は、震災のあるなしに関わらず、駅前はシャッター通り、人口は減って、若い人は都会に出て・・・。
というような状態だった。
そこに震災の被害。



果たして“復興”する、って言ったって、元通りになっても“シャッター通り”なんですか?
街が閑散とした状態になっちゃうんですか?
元通りに“復興”する意味ってあるのかな、ととある東北の牧師さんは言う。
復興と支援、その意味を考えてしまう言葉だった。


ベタな言い方になりますが、ぼくは“支援しに”行くのなら、“遊びに”行ってほしいと思う。
だって、何か大丈夫なところから“手助けする”よりも、“知り合いになった人のところに遊びにいく”感覚のほうが、かえって長続きするから。

“いいこと”をしている感覚があると、賞賛の言葉を期待するけど
“知り合いに会いに行く”のなら、“一緒にいることができて楽しかった”という感覚を共にできるのだと思う。

釜石にしばらく滞在して帰るとき、よく言われる。
“また来てくれるよね”“また遊びに来てね”“また会えるよね”


図らずもできてしまった、この人とのつながりが、ぼくを何度でもこの地に結びつける。
多分、5年後、10年後にもまた訪ねるのだろうと思う。

できれば保育園の子どもたちが大きくなるところを見たいと思う。
仮設住宅がなくなって、アパートなりなんなりの、その場所に訪ねてみたいと思う。

それでいいんじゃないかと思う。

“眉間にしわをよせて”“一生懸命”“支援”するのなら、
“のんびりと”“若干ちゃらんぽらんに”“遊びに行く”のが、結果的に息の長い支援につながる。
まぁ、ちゃらんぽらんすぎても困るけど、そこそこ締めておけばいいんじゃないかなぁ。

まぁ、怒られそうだけど。

自分のために・誰かのために


仕事って、なんのためにするんだろう?

自分のため? お金のため? 食べるため?

それも別に間違いじゃないけど、でも、もう一つ大事なことを忘れてると思う。
それは“誰かのため”ということ。

基本的に、あまり目に入らなかったとしても、仕事というのは“自分以外の誰かのためになる”ようになっている。
医者だとしたら、病気の人のため
弁護士だとしたら、法律とかで困っている人のため
看護師だったら、入院している人や病院に来る人のため。お医者さんのためでもあるかもね。

こういったわかりやすいのはいいけど、じゃあ、工場の工員とかはどうだろう。
複雑でわかりにくいかもしれないけど、部品工場の人だったら、その部品を使って作る製品の工場の人のためになって、その製品を買う人のためになる。
食品工場のベルトコンベアの前で働いているとしても、そのパンや弁当や缶詰は、食べる誰かのためになる。

少なくともはっきりしているのは、分業化されて見えにくくなっているとしても、仕事というのは“自分以外の誰かのため”に与えるものである。
逆に言えば、ぼくたちは、自分以外の誰かの仕事の結果を受けて、今、ここに生きている。無人島で1人で住んでいるとか、砂漠の真ん中に1人だとかそういった状況で、着るものもなく裸で、食べ物は自分で採集して・・・という条件でもなければ、誰かの仕事の結果を受けないわけにはいかない。
あなたの着ている服も、食べているものも、誰かが作ったもの。
スーパーで買う野菜だって、誰かが作ってそこに運んでいる。
自分で育てた野菜とはいえ、種は誰かが作っている。
あなたの使っている電気は、誰かが発電している。
寒い時に使うストーブの灯油も、誰かが精製して、家まで持ってきてくれる。

誰かがぼくに対して“仕事の結果”を与えてくれた。
だからぼくは色々な細かいことをしなくてもいい。

ぼくは“手作り食品”を作るのが好きである。
ベーコン・ハム・ぬか漬け・たくあん・にしん漬け・・・・etc
家庭菜園も好きである。

こうやって、多くのものを作ってみると、いくら“手作り食品”とは言っても、誰かがスパイスや塩や、種や、といったものを先に作っていてくれなければ、そもそも作ることはできない。

イエスは“受けるよりも与えるほうが幸い”と言う。
でも、ぼくたちは気づかないうちに、誰かの仕事の結果を“受けて”しまっている。
好むと好まざるとにかかわらず。

ただもらってばかりいると何となく居心地が悪いから“お返し”する。
でも、それだけじゃ何となくあれだから、他の誰かに“贈る”。
こうやって“贈り物”は続いていく。いや、続かせなくてはならない。

“よきサマリア人のたとえ”という有名なイエスのたとえ話がある。
ユダヤ人の旅人が追いはぎに襲われて倒れているところに、祭司、レビ人、サマリア人が通りかかる。祭司、レビ人はスルーしてしまい、ユダヤ人と敵対関係にあるサマリア人がその旅人を助けた、という物語。

美しい物語で、民族なんとかとかに良く使われるけど、ぼくはこの物語のキモは、この話をした後にイエスがかけた言葉「行って、あなたも同じようにしなさい」ということにあるんじゃないかと思う。

イエスは決して“助けてくれた人にお返しをしろ”と言っているのではなく“誰かに対して助けてあげなさい”“贈り物をしなさい”と言っているのだ。

仕事をするのは“自分以外の誰かのため”ということを最初に言った。
そう、だから、どんなに気に食わない仕事だろうと、自分に合わない仕事だろうと、クリエイティブじゃないと思っているにしろ、それは必ず“自分以外の誰かのため”になっているということ。
それを忘れないでいてほしいなぁ、と今、就職活動をしている教会の青年たちを見ながら思うのである。

依存症

携帯電話の普及が著しい。
特にiPhoneに代表されるスマートフォンは、今注目のアイテム。
ぼくも変えようかな、と思うけれども、何となく手が出ない、そんな日々を送っている。

ゲームやアプリも発達して、携帯が一台あればテレビは見れるし、ゲームもできる。
ひたすらメールもできる。
考えてみればすごいものだ。


先日まで、教会に通う青少年と所謂“キャンプ”に行ってきた。
大体において中学生高校生になると、もちろん家庭の事情もあるけれども、多くの子が携帯電話を持っている。
小学生で持っている子もいる。

当然、そのキャンプに携帯電話を持ってこないわけがないんだけど・・・。



いくらこの広大な北国とはいえ、よほどの山の中でなければ電波は届く。
キャンプしている場所でも当然届く。

もちろん、一応“ワンセグは禁止”“マナーを守りましょう”という指導はする。
しかし、状況は、ぼくらが考えるよりはるかに先を行っているように思う。


ぼくが初めて携帯電話に類するものを持ったのは大学のとき。
携帯電話はようやく普及し始めた頃で、まだまだ高価だった。
持っていたのは確かDDIのPHS。今のWILCOMの前身。

メールだって初めはカタカナしか打てなかったし、漢字を使えるようになっただけでびっくりした。
他の会社へはメールができなかった。
それからEメールになって、他の会社の携帯にメールができるようになって、絵文字とかも使えるようになって・・・。
今を考えると、“いやはや、発達したものだなぁ”と思う。

高校のときはポケベル、中学のときはそんなものは無かった。

友達とのコミュニケーションは口で、言葉で言う、そんな感じだった。
親に見られながら長電話もできないから、直接会って話すものだった。


だから、キャンプに来てまで携帯をいじっている子を見ていると、理解に苦しむ。
そんなものなくたって、友達とコミュニケーションは取れるはずなんだけど。


キャンプに来ていた一人の女の子は圧巻だった。
初めから終わりまで、礼拝中だろうが食事中だろうがiPhoneを手放さない。
常に持っている。
噴水で遊んでいようが、おやつを食べていようがお構いなし。


“依存症”という言葉が頭にポッと浮かんできた。
携帯は便利な反面、便利すぎて手放せなくなるように開発されている。

開発している人たちの意図は成功してるなぁ、と思う。


子どもたちにとっては生まれたときからあるのが当たり前なもの。
それが存在しなかったことなど想像できない。

メールで友達にいたずらするのが当たり前だし、絵文字を使わない用件だけのメールなんて考えられない。

だからこそ、使い方のマナーを守りましょう、と言いたいところだけど、それを指導するべき先生たちはぼくよりはるかに年上。
荷が重いだろうなぁと思いつつ、大学生の発案で“携帯不携帯”ルールを設定してみた。

半日ほど携帯を取り上げてみたところ、別にコミュニケーションが取れないという感じでもない。
子どもたちの持つ本来的な力に、少し“ほっ”としながら、来年はどうしてくれようかと思う。

こういった新しい文化についていけなくなった時点で、かなりおっさん化してるなぁ、と思う今日この頃なのです。
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北のサムエル

Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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