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メールは怖い

青少年プログラムに関わっていると、高校生や大学生、時には中学生とメールをやり取りする機会が増えた。

ある日、とある青年に“先生はいつも怒っている”と言われて困ってしまった。
なぜなら、全く身に覚えのないことだからだ。

よくわからずに聞いていると“メールに要件だけしか書いておらず、特に顔文字などのマークが使われていないから、これは怒っているに違いない”という。

一瞬理解できずにフリーズしてしまった。



人と人とがコミュニケーションする方法は、近代になって非常に発達してきた。
昔は、顔と顔を突き合わせて話をするしかなかった。
そのうちに“手紙を書く”ということができるようになり、多少遠方の人ともやりとりができるようになった。
しかし、その手紙にしても、誰かが足で歩いて運んでいるので、届くのか、届かないのかもわからないし、返事がいつ来るのかもわからないような状態で、非常に時間がかかるコミュニケーションしかできなかった。
お互いに合って話をするにも、交通手段はよくて馬に乗る程度で、普通の人は徒歩。
それこそ、やり取りをするにも何ヶ月もかかるのがあたりまえだった。

グラハム・ベルの発明によって電話が発達すると、顔を合わせなくても瞬時に人と言葉だけでもやり取りすることができるようになった。
交通網も発達し、手紙も早くつくようになったし、お互いに会うためにかかる時間も減った。
でも、少なくとも電話は家にあるもので、好きな女の子の家に電話をかけても、お父さんに「娘はいません」と切られてしまい、涙を飲んだ男の子も多いはずだ。
今ではいい思い出だけど。

そして、ついに携帯電話が生まれ、少なくとも現代で携帯電話を個人で持っていない人のほうが貴重な存在になりつつある。
また、インターネットの発達により、手紙ではなく、瞬時に相手に届く“メール”も一般的なツールになった。


ぼくの子どものころ、家にあった電話は黒電話だったし、携帯電話もパソコンも一般的なものではなかった。
そんなものがあるなんて知らなかったし、想像もしなかった。
中学校の修学旅行で初めてグループに持たされた携帯電話は、肩にかけるもので、とっても重くて使いづらいものだった。

高校の頃はポケベルだった。
テレホンカード片手に休み時間に公衆電話に並び、必死にボタンをプッシュした。
打ち間違えてわけのわからない文章を送ってしまい、友人や彼女に笑われたりしたのもいい思い出である。

大学に入ったとき、初めて個人で携帯電話を持った。
しかし、その時のメール機能は、カタカナしか使えなかったり、絵文字なんて夢のまた夢。文字数も少なかったので、用件のみしか伝えられない、そういったものだった。

だから、今の高校生・大学生たちのその“メールに絵文字を使わない人は怒っているに違いない”という判断は、ぼくにとっては異次元の感覚なのである。


コミュニケーションの手段が多彩になっているが、ぼくは人が人とコミュニケーションをとることの一番基本は、“人と人とが会って話すこと”だと思っている。
なぜなら、時間はかかるが、一番誤解の少ない方法だからだ。

人と会っている時は、その人が語っている言葉のほかに、表情やしぐさ、声のトーン、場所の雰囲気など、多くの判断材料があって、伝えたいことが伝わるための手段が豊富である。
また、言葉とは裏腹な思いを伝えるという複雑なコミュニケーションも可能にする。

それに比べると電話は一段落ちる。
電話によるコミュニケーションの場合、判断するのは言葉と、声のトーンくらいしかない。つまり、言葉の重要性の比率が増す。

そして、携帯電話の発達によって、いつでもどこでも個人に連絡をつけることが可能になったので、例えばトイレでうんこをしながら、悩み事の相談を受けるといったことがありうる。
また、言葉の上で真剣に聞いているようでも、鼻くそをほじりながら聞いて返事をすることだってできるし、テレビを見ながらだっていい。

そして、メールにいたっては、言葉しかない。
完全に字面で判断するほかは無いのだ。
だから、若者たちはそこに表情をつけようと思って(判断材料を増やすことを願って)顔文字をつけるようにしたのだろう、と思う。
しかし、この場合に見落としているのは、その顔文字は、メールを書いている人の感情そのものであるのかどうかの保証がないということである。
つまり、怒り心頭の状態にありながら、笑顔の絵文字を使うことだって可能だ、ということである。

若者たちの人間関係がこじれる理由もそこにある、とぼくは思う。

もちろん、これらの手段に一長一短があるのはわかるし、顔を合わせない方が言える言葉があることは承知している・・・が、これだけメールのやり取りをしている環境の中で、もう少し立ち止まってみませんか、と言いたいのだ。

でも、手紙だって字面だけで判断するほかはないじゃないか、というご指摘もあると思う。

手紙とメール、どちらも文字だけで相手に伝えるものだが、明確に違うのは、そのやりとりにかかる時間である。
手紙は近いところで1~2日、遠いところになると国内でも1週間、海外になると1ヶ月はかかることもざらで、返事が来るのを考えると倍はかかるという、非常に時間の掛かるやり取りなのである。
また、手紙には長い歴史があり、書き方の作法など、色々な文化があり、あまりぞんざいな言葉づかいはできないものだ。

しかし、メールは違う。
瞬時に相手に届くし、相手が受け取ったかどうかもすぐわかる。
しかも、時間を問わず相手に届く。
文章だって多少くだけていても大丈夫。
そして何より大切なのは“すぐに返事しなくてはならないもの”であるということだ。

この“瞬間性”がメールの最大の武器であり、欠点であると思う。

もちろん“メールをすぐに返信しなくてはならない”というのはただの強迫観念であり、思い込みだ。
けれども、若い世代にとっては、それはかなり重要なことらしい。
返事が少し遅いだけで仲間はずれにされたり、誤解されたりするらしい。(例えば、怒ってるらしいとか)

ぼくは割と返事は返すほうだけど、非常識な時間に入ってきたメールや、返事に困る内容のメールには返信しないし、直接話さないと伝わらないな、と思ったらすぐに電話するようにしている。
少なくとも、よっぽどの用事でない限り、家の電話に電話できる時間にしかメールはしないことにしている。
特に夜はまずい。
何故か夜に書いた文章は、筆がすべったりして、誤解を招く文章になりやすい気がする。
ボンヘッファーはかつて「夜に書いた説教は、朝の光に耐えられない」と言ったそうだけど、人に何かを伝えたい文章を書くときは、夜に書くのはやめたほうがいいと思っている。

でも、若者たちの常識は違うので、「先生はいつも怒っている」になるわけだ。
そりゃそうだ。
だって夜9時以降のメールにはほとんど返事しないし。

夜中の2時3時に、返事に困るとりとめもない内容のメールをもらっても困る。
でも、それを友達に当たり前として要求する子が割と多い。
そしてまた、相手の状況もわからずに、即時の返信を求める子が多い。
そうなると、お互いにストレスがたまり、怒り出す。
片方は返事が来ないことに怒り、片方はこんな時間にメールしてきて、と怒っている。

そして怒り出すとお互いに言葉がエスカレートし“絶交”状態になってしまう。

そこまで行かなくても、ストレスを感じるので、お互いに何となく疎遠になってしまうことも多い。


文章だけでのやり取りには、大きな想像力が必要不可欠だ。
相手はどんな状況なのか、何を感じるだろうか、どんな表情で読んでいるのか、どこで読んでいるのか。
こういったことを考えなければ、誤解を生むのは必定。

手紙の場合は、時間がかかるのであれこれ考えるし、気持ちも治まる。
それに、返事を待っている間のあのわくわく感がたまらない。
でも、メールの場合、それらを“瞬間的”に行わなくてはいけない。
実はメールというのは非常に高度な、成熟した人間のコミュニケーション・ツールなのではないかと思うのだ。

だから、若い人たちに声を大にして言いたい
「メールは怖いものです」

だからメールを送る時は文章をしっかり吟味して、考えて送る。
そして、遅い時間には送らない。
大事な用件は、会って話す。
そして、メールだけのやり取りになるときは、想像力を最大限に働かす。
さらに、すぐに返事を要求しない。返事を待つ間のわくわく感を楽しむ。

あと、先生は怒っていませんが、夜の9時以降のメールへの返事は期待しないでください。
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Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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