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支援とは何ぞや?

年末年始に、被災地「釜石」へ行ってきた。
自分を含めて5人と一緒にでこぼこ珍道中。


もちろん色々あったのだけれども“支援”ということについて色々と考えさせられたことをつれづれながら書いてみる。

ぼくは、こういった支援というのは“眉間にしわを寄せながらやる意味はない”と思っている。
やるほうもしんどいし、受けるほうもしんどい。正直息苦しい。
まぁ、マゾなら別だけど、ぼくには向かない。

“支援に来たんだから”“遊びに来たんじゃないから”と、まじめな人は思っちゃうんだろう。

「観光に来たんじゃないから、お土産を買うなんて」
「支援しに来たのに、遊んじゃいけないんじゃないか」
「何でまじめに仕事をしないのだ」

どこのボランティアセンターでも、多分こんな会話があるに違いない。
でも、ぼくはそんな「支援に来た」という“大真面目”な感覚に、とっても違和感を覚える。

釜石に限らず、どこも、直接被災していなくても、東北各地は影響を受けている。
だから、例えば、現地でお土産を買うことによって、その地の経済が少なくとも回る。
人が行くことによって、雇用が増える分野もある。

ぶっちゃけた話、人が行って住むだけで、多少なりとも効果はあるんじゃないかと思う。

東北のほとんどの都市は、震災のあるなしに関わらず、駅前はシャッター通り、人口は減って、若い人は都会に出て・・・。
というような状態だった。
そこに震災の被害。



果たして“復興”する、って言ったって、元通りになっても“シャッター通り”なんですか?
街が閑散とした状態になっちゃうんですか?
元通りに“復興”する意味ってあるのかな、ととある東北の牧師さんは言う。
復興と支援、その意味を考えてしまう言葉だった。


ベタな言い方になりますが、ぼくは“支援しに”行くのなら、“遊びに”行ってほしいと思う。
だって、何か大丈夫なところから“手助けする”よりも、“知り合いになった人のところに遊びにいく”感覚のほうが、かえって長続きするから。

“いいこと”をしている感覚があると、賞賛の言葉を期待するけど
“知り合いに会いに行く”のなら、“一緒にいることができて楽しかった”という感覚を共にできるのだと思う。

釜石にしばらく滞在して帰るとき、よく言われる。
“また来てくれるよね”“また遊びに来てね”“また会えるよね”


図らずもできてしまった、この人とのつながりが、ぼくを何度でもこの地に結びつける。
多分、5年後、10年後にもまた訪ねるのだろうと思う。

できれば保育園の子どもたちが大きくなるところを見たいと思う。
仮設住宅がなくなって、アパートなりなんなりの、その場所に訪ねてみたいと思う。

それでいいんじゃないかと思う。

“眉間にしわをよせて”“一生懸命”“支援”するのなら、
“のんびりと”“若干ちゃらんぽらんに”“遊びに行く”のが、結果的に息の長い支援につながる。
まぁ、ちゃらんぽらんすぎても困るけど、そこそこ締めておけばいいんじゃないかなぁ。

まぁ、怒られそうだけど。
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Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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