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非国民

“非国民”という言葉を聞くと、戦争を思い出す。
・・・というより、聞いたことのある“戦争の話”を思い出すというべきだろうか。

戦時中、女性がスカートをはき、口紅をつけていると言われたそうだ。
「そんな格好はやめるべきだ。前線で戦っている兵隊さんの苦労を思うべきだ。それがわからないあなたは非国民だ」

今、この言葉を聞いたあなたはどう思うだろうか。
ぼくは、このロジックが“おぞましい”と思う。

そして、戦争は終わり、自由の時代がやってきた・・・ように見える。

が、こういった言動は形を変えて生き残っていると思う。
今だったら「節電しないあなたは非国民だ」だろうか。

とある教会に赴任しているときにかけられた言葉だ。
「おれたちは、週に六日働いて、日曜に教会に来ている。毎日休みがない。そんな人たちはたくさんいる。だから牧師が休みをとったり、ダラダラしているのはいけない。そんなやつは牧師ではない。そんな資格はない」
「信徒の中には、年金暮らしでかつかつの生活の中で献金をしている。あなたは牧師で、その給料は献金の中から支払われているのだから、娯楽にお金を使ってはいけない。そんなやつは牧師ではない。」
「牧師が独身で、若い場合は、可処分所得が多いのだから、給料の半分は教会のために使ったり、慈善事業のために寄付をしたりするべきだ。信徒の中にはかつかつの生活をしている人もいるのだ。それができないやつは牧師になるべきではない」
「牧師が車を持っているのはぜいたくである。百歩譲って車を持つのなら軽自動車にするべきだ。信徒よりいい車を持っているのは、いい牧師ではありえない。」

これらの言動の中に、先ほどの「非国民だ」という言葉と違うロジックがあるなら教えてほしい。
今の節電だってそうだ。
「ほしがりません勝つまでは」という言葉と、何の違いがあるだろうか。

自分がそのように感じて実践するのはいい。
ただ、それを他人に要求するべきではない。
それは、どんな社会的な立場がある人相手でも変わりはない。

ぼくはそう思う。
これらの言葉の背後にあるのは、自らの“絶対正義”である。

例えば、牧師がその言葉によって感化され、生活をつつしみ、給料の半分以上を寄付し、軽自動車に乗っていたとしたら、彼は言うだろう。
「おれは、あいつが若い時に言ってやったんだ」と。

逆に、彼がその忠告に耳を貸さずに何ほどか失敗したとしよう。
そうすれば彼は言うだろう。
「俺の言うことを聞かないからだ」と。

別に失敗しなくとも、言うことを聞かなかったとすれば
「あいつは、もののわかっていないやつだ」と周囲の人に言えばいいだけの話。

自分はいつも正しい位置をキープしていられる。


そんな、高みから降りてこないような言動が、今教会の中にはびこっているのではないか。
そんな牧師の扱いを見てれば、“牧師になりたい”などという奇特な人間が出てこなくて当たり前ではないのか。
もし、万が一いたとしても、そんな状況の教会に放り込まれれば、精神崩壊するんじゃね? と思うのである。

今日の福音書は、種まく人のたとえだった。
通常、このたとえは、「まかれた地(人)がどういう土地(人)かが重要であり、わたしたちはいい土地であるようにしましょう」という言葉だ。
でも、今日話をしたのは、わたしたちがもし、種まく人だとしたら、自分の蒔いた種がどんな地に落ちるかはわからない、という話だった。

なるほど、と思った。
人生は、絶対に、思い通りにはならず、自分がどう思っているかということなど吹き飛ばしてしまうかのような残酷な結果になることもあるものだ。

そして、世界はぼくが思っているよりも広く、ぼくを包み込んでくれる。
ぼくがどう思っているかに関わらず。

世界は絶対に自分の思い通りにはならない。
だからこそ、世界は面白い。
そして、生きている甲斐がある。

ぼくはそう思う
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Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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