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これからお父さん・お母さんになる人へ


突然ですが、わたしは“できちゃった結婚”という言葉が嫌いです。
なぜなら、その“できちゃった”と言う言葉づかい、“~~しちゃった”という言葉づかいが気に喰わないからです。

何故気に喰わないのか、それは、その“~~しちゃった”という言葉が「何ほどかの“後悔”や“失敗”を自分がした」という動機を含むからです。

わたしは“子どもができる”ということは非常に尊いことであると思います。
そしてそれは、お父さんもお母さんも“子どもができる位健康であった”ということを示しています。(少し言い方に語弊がありますが)

世界には望んでも子どもができない人がたくさんいます。
男性側に原因がある場合もありますし、女性側に原因がある場合もあるでしょう。
また、原因がなくても、なぜかできない場合もあるかもしれません。
“望んでもできない”ということに比べれば非常に幸せなことである、おめでたいことであると思います。
思いっきり喜んでいい事態だと思うのです。

そしてまた、その“できちゃった”という何ほどか後悔を含む言葉は“生まれてくる子どもにとってよくないのではないか”と思います。

“できちゃった”という言葉は、どちらかというと“事故”のような意味を持ちます。
生まれた子どもが成長し、自分が“できちゃった”という言葉を聞かされるということは、子どもの成長にとっては絶対によくないことです。

自分が生まれたのは事故である。
自分は望まれていたのではなかった。

“できちゃった”という言葉の背後にある意味に、子どもは必ず気がつく時が来ます。

また、夫婦喧嘩などの後、子どもに
「あなたが“できちゃった”から離婚できない」
などという言葉をかけるケースがありますけれども、それこそ最悪の言葉のかけ方でしょう。

否定的な言葉をかけられ続けた子どもは、自分を肯定することができなくなります。
それは、子どもの成長にとって害にしかなりません。
子どもにとっては一種の“呪い”です。

呪いというのは口ヘンで表されるとおり、元来“口”(言葉)で行うものです。
それは相手にとって“ワケのわからない言葉”であり、“自分ではどうすることもできない状況”を示す言葉のことです。

逆に言えば、呪いというのは、わけのわからない言葉でなければならない、ということができるでしょう。
ワケがわかってしまったら呪いになりません。
理解できないけど何となく引っかかる、そういう言葉でなくてはならないのです。

聖書には“呪われよ”という言葉が使われている部分があります。
あの部分は、ギリシャ語で“ウ~ァイ”という単語が用いられています。(敬愛する田川建三先生は“わーい”と訳していたね)
ある人が、誰かに向かって“ウ~ァイ”と声をかけると、その言葉が“ウ~ァイ”と飛んでいってその誰かにまとわりつき、弱らせたり、ある時には殺してしまったりする。
そういう言葉なのです。
もちろん、意味はまったくありません。

繰り返しますが、呪いの言葉に意味ありません。
いや、意味はあるように見えるけど、かけられた本人にはどうすることもできない状況に対する言葉だったり、冷静に考えれば“だからどうした”と思ってしまうような言葉です。

現代では“わたしのことなんかどうでもいいんでしょ”とか“仕事とわたし、どっちが大事なの”とか“お前のためを思って言ってるんだぞ”などの言葉が当てはまるだろうと思います。
こういった言葉も一種の呪いで、これらの言葉はその言葉をかけた人を縛り、自分の支配下に置こうとする言葉です。
これらの言葉は意味があるように見えますが、まったく意味はありません。
彼らの言葉を文字通り真に受けて一生懸命努力したところで、次の言葉が投げかけられ、いつしかその人は判断力を失い、縛られていきます。
もちろん、この言葉の掛け合いは、恋人同士や夫婦間でもよく見られるものです。
でも、こうなった夫婦や恋人同士はあまり続いたためしがないのではないか、わたしはそのように思います。

少々話が脱線しましたが、“できちゃった”という言葉も、わたしはその一つだと思っています。
生まれてきた子どもにとって、自分の存在が“できちゃった”ということはどうすることもできないことです。
唯一できることは、その場からいなくなること、つまり命を終わらせることです。
そうでなければ、彼は自分の存在を肯定できなくなってしまうのです。

子どもがよく、ものを“おとしちゃった”とか“壊れちゃった”と、表現しますが、そういった言葉遣いを学習すると、彼は、自分が“できちゃった”ものであることに気がつきます。
それはおそらく幼稚園に通っているくらいの年齢のはずです。

その時から彼は、自分の存在は許されないのではないか、という問いを抱え込むことになります。
精神的に強い子は乗り越えられるでしょう。
だが、生まれてくる子に向かって、精神的に強くなければいけない、というのは暴論でしかありません。
子どもは、自分の生まれてくるところを選べないのですから。

そういった、自分にはどうしようもできない言葉をかけられ続けると、その言葉はかけられた人を蝕み続け、その人は衰えていきます。
だから“呪い”なんです。

また、この言葉は夫婦になろうとする2人をも蝕んでいきます。
彼らは、計画的に、状況を整えて、子どもを授かった人々とは違い、同じ子どもを授かった身としては大きなハンデを背負っています。
子どもを授かるということは喜ばしいことであるのに関わらず、前者は肯定され、後者は否定されます。

ただでさえ、社会的に後ろ指を指されうる状況の二人に対して“できちゃった”という言葉が呪いの追い討ちをかけます。
初めは喜ばしく感じていたとしても、そんなつもりではなかったとしても、“できちゃった”という言葉の負の力にとらえられ、疲弊していきます。

なぜなら、「子どもを授かった」という事態は、自分たちにとってもはやどうすることもできない事態であり、彼らはその事態に相対するだけで精一杯のはずだからです。

そんな時こそ、その人たちに“おめでとう”と周囲の人たちが声をかけ、何かと準備不足な彼ら彼女らに対して支援してあげることこそが必要なのではないでしょうか。

とあるブログからの受け売りになりますが、わたしはこの場合、“さずかり婚”と呼ぶべきであると考えます。

子どもは“授かるもの”であり、この“さずかる”という言葉には、肯定的な感情が含まれています。
少なくとも“できちゃった”という後悔を含む言葉にはない明るさがあります。

わたしはこの場合にイエスはどうしただろうか、と考えます。
“汝姦淫すべからず”と彼らに悔い改めを迫っただろうか。

否。
彼らにまず“おめでとう”という言葉をかけたのではないか、そして、急激に親になろうとしている2人を見守り、支援したのではないかと思います。

彼らは、その事態に直面しなくてはならない、というだけで十分に社会的責任を負っています。

彼らの前途は多難です。
“さずかり婚”の場合は、準備不足の場合がほとんどでしょう。
子どもが生まれる日程は変えられませんから、その間に両家への挨拶やら式やら届出やらを済ませ、その合間に親になる学びを行う。
通常はこれだけで精一杯のはずです。

その上でさらに、子どもを育てなくてはなりません。

その彼らに対して“できちゃった”という言葉をかけるということは(呪いをかけるということは)、親になる2人だけでなく、生まれてくる子どもをも呪うことになるでしょう。

だから、わたしはこの“できちゃった結婚”という言葉が嫌いです。

いや、“それでも律法に示されている順序が・・・”とか“世間体が・・・”という人は、イエスの誕生についてもう一度考えてみてほしいのです。

イエスの母マリアは“聖霊によって身ごもった”。
しかし、傍からみた客観的事実としては、彼女は誰とも知れない男の種で身ごもったのだととらえられてしまっても仕方がない状態です。(ちょっと語弊はありますが、石投げないでください)
未婚であるのに。
それにもかかわらず、批判されることを承知で、ヨセフはマリアと結婚することにした。
だから彼の行いは気高く尊いのだと思います。

そうやった批判にさらされたことは、聖書中に“マリアの子イエス”という言葉が見られることからも容易に想像がつきます。
通常は“ゼベダイの子ヤコブ”のように、父親の名前が用いられるはずです。
だから、母親の名前で呼ばれるということは、イエスが成長して尚、父の子ではない、という陰口の中で生きていたことを示しています。
それに、イエスはローマ兵の子、という伝承もあるくらいですから。

どうでしょう、あなた方の周りにシングルマザーがいたとして、“この子は聖霊によって生まれた”と言われて、あなたは即座に信じますか。
決して信じないし、そのお母さんは“少し頭がおかしい人”として扱われてしまうのではないだろうか。

わたしはこのように考えます。

石を投げられようが、何しようが、マリアが妊娠していることに変わりはない。
すべてはそこから出発しているのではなかろうか、と。

でなければ、こんな、誤解されるに間違いない文章が聖書に残されるわけがないと思うのです。
だって、文字通り読めば、マリアはただの軽率な女になってしまいます。

それでも、イエスは育ち、周りから冷ややかな目で見られながらも、一家を支えるまでに成長しました。
今よりもむしろ、世間的な風当たりや批判の言葉は強かったのだと思います。
だからこそ、父ヨセフの力は強かったし、彼こそが、イエスは聖霊によって身ごもった神の子である、という信仰者の第一号であっただろうと思います。
ヨセフはイエスが生まれる前にそれを決心していたのに違いないのですから。


だから、この“授かり婚”の場合にも、“わが子は聖霊によって身ごもっている”と思ってほしい。
そのことが、単なる恋人同士を、父であり、母である人に変えていくのです。

そして、これは教会に対しても言えることだと思うのです。
彼らに対する世間的な風当たりは強い。
それを支えてあげることが教会にできること、キリスト者としてあるべき道ではないだろうか。

“律法的にまずい”とか“聖書によれば”と言ったところで、その子がいなくなるわけではありません。
その子の存在を否定するのではなく、生まれてくる子を受け入れ、歓迎することが、その子が育つために絶対に必要だと思うのです。
子どもに必要なのは“できちゃった”という呪いではなく、“あなたは望まれて生まれてきた”という祝福です。(もしくは“あなたが生まれてきてうれしい”という祝福です)

逆立ちしたって元には戻らない事実をあれこれ批評するより、受容し、そのことに祝福を与えていく、そのことこそが教会のとるべき道だと思います。

それでも、子どもに見られないように影で言えばいいではないか、と思っていませんか?
いいえ、子どもは近しい大人の雰囲気に敏感なものですよ。
そして、小耳に挟む力が大きいんですよ。

律法が先にあるのではなく、教会が先にあるのでもなく、聖書が先にあるのでもなく、事実が先にあるのではないのか。
わたしはそのように思います。
そして、こう祈ります。

これから親になる人へ。
“おめでとう。本当におめでとう。神さまがあなたたちを結びつけるために、子どもを授けてくださったことを信じ、よい家庭を築き、元気な子どもを育ててください。神さまの豊かな祝福があなたたちと、そして生まれてくる子どもにありますように”
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Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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