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狼少年は正しかった

狼少年のお話は、誰もが一度は耳にしたことのある話だろう。
アイソポスの寓話にある、少年の話だ。

とある村に住んでいたいたずら好きの少年が、狼が来ていないのに「狼が来るぞ!」と夜に叫んで、みんなが右往左往するのを見て喜んでいた。
でも、本当に狼が来た時、彼が「狼が来るぞ!」と叫んでも信じてもらえず、結局彼は狼に食べられてしまった。
確かこんな感じの話じゃなかったかと記憶している。

ウソついていると、いざという時信用してもらえない、というような教訓がついていたような気がする。
それとも、ウソばっかりついてると、それが現実になって困っちゃうぞ、という話だったか。



今改めてこのお話を考えているが、この話は“狼少年は正しかった。ゆえに死ななければならなかった”とも考えられるのではないか。

今の原発がいい例だけど、「地震が来るぞ」という叫びに対して「そんなのは来ない」とか「200年に一度のことの対策を今する必要は無い」と言って取り合わなかった。
そして3月11日の地震で起きた原発の事故。
彼らは“想定外”としか言うことができなかった。
多くの被害を撒き散らしながら。

そしてメディアでは「ほら、いわんこっちゃない」というような言説が目につく。

狼少年は危機を叫ぶ。
しかし、平時であれば、彼はただの基地外として扱われるのだろう。
彼が、己の正しいことを証明しようと思えば、それを証明する手段は一つしかない。
狼が実際に来ること、つまり、彼の訴える危機が現実になることである。
なるべく被害は甚大な方がよい。
“ほれ見たことか”と言えるから。

意識してはいなくても、無意識的に、人は自分の言説の正しさを証明する機会を求めるから、彼らの行動は、危機に突っ込んでいくようになる。
狼少年だって、毎夜外に出ずに、家にいれば死ななかったかもしれない。
しかし、彼は自分の身をもって、自らの死という現実を持って、自分の正しさをある意味で証明したのだ。

だから実は、危機を叫ぶ人たちは実際に対策をする場合にはなかなか動いてくれないことが多い。
もしくは基地外扱いされることに憤慨して、手伝ってくれないこともある。
そしてもし、手を貸してくれる場合でも、より、危機になるように動いてしまう危険が多分にある。(もちろん、半分は無意識的にだけど)
さらに、場合によっては、その集団を危機に陥れるように工作したりしてしまうのだ。
意識的に、あるいは無意識に。



教会の危機が叫ばれて久しい。
昔の教会で用いられたであろう宣教関係の文書には、必ずと言っていいほど「このままだと教会はダメになる」というような危機感をあおるような一文が出てくる。
“あと20年後には教会の数が半分になっている”とか、まぁ色々。

だけれども世界は、教会は、その“狼少年たち”が叫んだよりも良く、でも楽観的だった人々よりは悪く進んでいるのだと思う。



危機にあって、危機を叫ぶ人よりも、冷静に行動する人のほうが生き延びることができるだろう。
完全に浮き足立つのではなく、ある程度落ち着いて行動した方がいい。

教会もそうなのではないか。

今また、教会の危機が叫ばれている。
人数が減っている、高齢化している、聖職のなり手がいない、聖職が崩壊している・・・etc

でもおそらく、20年後に見た時、緩やかな下降線をたどりながら、危機を叫んだ人が言ったよりも良く、楽観的な人が言ったよりも悪く、推移しているのだろうと思う。

危機にあって、危機を叫ぶのではなく、現状を冷静に分析し、手持ちのカードを調べ、じっくりと構えて考える方が、最終的な結果は良いのではないかと思う。

わたしたちの教会の持っているリソースは、もうかなり少ない。
お金だって、それほど多くない。
できることはかなり限られている。

だから、人数が減ってやばいから“どこか人数が増えている教会の方法論を持ってきてやれば”とか“大きな大会を開こう”とか“社会的に目立つ活動をしよう”とか、そういった大きな行動は、もはやできないということを認識するべきだと思う。



わたしは、教会に必要なのは、朝早く、歩道を除雪している人のような働きだと思う。
冬、北国では歩道も埋まってしまって歩きづらい。
車道は市や国が除雪してくれているけど、歩道はそうはいかない。
でも、誰かは知らないけど、毎朝、歩道を除雪してくれる人がいる。
誰よりも早く起きて除雪し、歩く道を整える。
そして、通勤・通学する人がいる頃にはその姿はない。

誰からも感謝されることはないけれども、社会が円滑に動くためには必要な働き。
もちろん、その働きがなくても別に社会は動くけれども、その働きがあることで、より円滑に社会が回るような、少なくとも、少し気持ちよく回るような、そんな働き。
そんな働きができればいいのではないかと思っている。

オーケストラには第一バイオリンがいて、トランペットがいて、フルートがいるけれども、ビオラも、トロンボーンも、ファゴットも、トライアングルも必要である。
その、目立たず、あまりスポットも当たらず、感謝されることもないけれども、そういった人がいないと何となくオーケストラの音に厚みが出ない、そんな働きができればいいのではないだろうか。

そして、誰からも感謝されずにいるけれども、社会として必要だ、ということに心意気を感じてやることができる人々の集まりになれればなぁ、と思うのだ。
“わたしたちに理解されることよりも、理解することを求めさせてください”という、アシジのフランシスの祈りの原点が、こんなところにあるのではないかと思ったりするのだ。


さぁ、自分の手持ちのカードを調べよう。
そして、それを冷静に秤にかけよう。
多分それは、とっても少なくて。
でも、それで、何となく周りが少しだけ気持ちよく感じてもらえるように動くことができるように、頭を、身体を使おう。

多分、わたしたちにはそんなことしかできないから。
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Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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