スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

社会的インフラとしての宗教団体

東北への支援のために、教会でも募金をしたり、物資を集めたりしている。
で、まぁ、その使い道とかについての説明を求められたのだけれども、その中に??という意見があった。

「これは、東北の被災した信者さんだけに送るものでしょ。(むしろそうでなきゃいけないよね)」
というもの。

もちろん、そんなことはないわけで、例えば炊き出しをしたり、避難所に必要とされるものを届けたり、仮設住宅に入る時にあげたりと、基本的にもれなく全員に分かち合うのが当たり前だと思っていたし、実際にはそのように運用されている。

その意見を聞いたとき、反射的に「何を狭量な」と思ったのだが、“なんでこんな意見が出るのだろうなぁ”と考えてみた。
だってその人は(仮にTさんとしよう)、少々口は悪いけど、周囲の人に対する気遣いだとかは普通に持っているし、それなりに年輪を重ねてもいるわけで、“被災した信者だけ助ける”という考えに固執するような方じゃないと思っていたので。

で、タイトルの「社会的インフラとしての宗教団体」ということが絡んでくるわけだ。

日本ではかつて、生活の基盤は地域共同体(ムラ社会)で、その中で助け合ったり、弱いものを保護したりということをしていた。
もちろんその反面、互いの家に平気で上がり込んだりするなど、プライバシーなどはなく、今から考えるとへんてこかもしれないけど一定のルールがあり、その地域は治まってきた。
そのルールを破った場合“村八分”になったり、共同体から追放されたりするわけだ。

しかし、時代が進むにつれ、人々はどんどん移動するようになり、安全だけど息苦しい“ムラ社会”から飛び出して“都会”に生活の拠点を移す人々が増えた。
そして、今も増え続けているのだけれども。

しかし、生まれた場所の共同体を離れると“つながり”がない。
でも、人はある程度のつながりがないと生きるのが大変だ。
その時に一定の役割を果たしたのが宗教団体である。

キリスト教をはじめ、天理教、金光教、創価学会などの新興宗教が、かつての“ムラ”に代わって、人々のつながりと相互扶助の促進という役割を担った。
だから一時期、教会の人数も増えたし、活動も活発に行われていたし、教会の礼拝出席率もかなりよかったはずだ。
多分、今から40年くらい前までのことじゃなかろうか。

話に聞く限りでは、教会の人々のつながりは結構強く、例えば、ぼくの恩師はかつて独身だった時、教会の婦人会の人が来て、いきなり写真を何枚も渡され「どの子がいいの?」と聞かれたそうだ。(教会員さんの娘さんたちの写真ね)
その先生は、その時「ぼくは一生独身で行きます」と答えたそう。
もちろん、今は素敵な奥さんと共に暮らしているけれど、結婚を決めた時は、“独身で行きますって前に言ってたのに”と結構きつく言われたそうだ。

まぁ例として適切かはわからないけど、このような形でお互いに助け合い(干渉しあい)、かつてのムラ社会よりは干渉度合いが低いけれども、お互いにかかわりあうような集団として、社会的なインフラとして機能してきた。
息子、娘の縁談もその中でやってしまうような、小さな集団。
だから、うちの教派には、どこの教区にも“~~一族”がいて、どこに行っても親戚にあたる、と揶揄的に言われるような状況もある。
もちろん、今はそれも解体しつつあるけれども。

しかし、当時の第一世代の人々はそれでよくても、その下の世代、そのさらに下の世代にとっては、その教会のつながりが閉鎖的な“ムラ社会”のように見えてしまう。
当然と言えば当然である。
彼らはかつての、第一世代たちが飛び出してきた“ムラ社会”を体験してはいないから。

そして、かつて“ムラ”を飛び出したDNAは彼らにしっかりと刻まれているわけで、こうなってくると教会を飛び出すより仕方なくなるわけだ。
もしくは飛び出しはしないものの、教会には顔を出さない信徒が多くなるというわけである。

それで先ほどのTさんの話しに戻るけれども、こう考えるとTさんの意見ももっともで、Tさんの中で教会は“メンバーになっている人の互助組織”でもあるわけである。
いや、むしろそっちの方が強いかも。

また、これは全国にある程度の数の教会がある団体に限られるけれども、転勤族で、地元とのつながりが作りにくい家族にとって、この“互助組織”である点は有利に働く。
少なくとも、何のつながりもなく転勤して、地域に放り出されるよりは、ある程度の共通意識を持つことが可能な集団を、引っ越してすぐ持つことが可能なのだ。
そういったものを持っているかいないかというのは、精神安定上非常に大切な点だと思うのだ。

そしてさらに言えば、人間が持っているつながりって、家族・親族・地域(町内会とか)・国・学校・会社、って感じだろうか。
それぞれにそれぞれのつながりがあって、濃かったり薄かったり、助かったりそうでもなかったりするわけである。
そして、それらにプラスして“宗教”があると、1つ引き出しが増える。
一つ一つのつながりが小さい場合は特にだけど、この1つの引き出しが増えるメリットは大きいのではないだろうか。

これらのことを総合して考えると“全国のうちの教派の人は、助けるべきメンバー”であり“優先的に”ケアしなきゃならないという発想は、不思議でもなんでもない。
なるほどなぁ、と考えてしまった。
それがいいことなのか悪いことなのかは置いといて。

こういった社会的インフラを持っている数が多ければ多いほど、人は生き延びやすくなる。
平時にはうっとうしいだけかもしれないけれども、いざ何かあったとき、こういった組織に属しているか否かというのは、いろいろなものを左右する。
実際問題、阪神淡路大震災の時、教会からも見舞金を信徒に渡している。
それは信徒だけに渡されるもので、信徒だけは「政府からの義援金+教会からの見舞金」を手にすることになり、周りよりも少しだけ、多くお金を手にすることができたわけだ。
まぁ、どうも微々たる額だったらしいけど。

だから、宣教するにあたって、こういうメリットを強調してもいいかもしれないと思った。
けど、近年教会が高齢化で小さくなってきちゃったので、メリットも消えつつあるような気もする。

もちろん、それって信仰と関係ないじゃん、と言われてしまっては元も子もないけれども、教会と言うのはそもそも“純粋な信仰だけ”の集団ではなかったはずなのである。

例えば、使徒言行録6章には、(貧しい者の)食事の世話をするための人々を特別に選んだという話が出てくるし、教会としても、共同体の中の貧しい人々に配慮するということを大切なこととして行ってきた。
国教化されてからは、それがほぼ全員(だってどこに行っても信徒しかいないし)を対象とするものになった。
つまり地域の共同体というものが教会の中に取り込まれていく形で成長してきたわけだ。

例えばイギリスであれば、教会=国の役所の役割であった時期もあるし、現在でもその名残は残っているようだ。
誰も口に出して言うわけではないけれども、教会に限らず、宗教はそういった“社会的インフラ”の役目を果たすものでもあるんですよ、ということはもっと知られてもいいと思うんだけど。

まぁ、それがどれほど役に立つかといっても、平時にはむしろうっとうしいだけだと思われることが多いのが困り物だけど。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

義援金募集
FC2「東北地方太平洋沖地震」義援金募集につきまして
カウンター
プロフィール

北のサムエル

Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。