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自分のために・誰かのために


仕事って、なんのためにするんだろう?

自分のため? お金のため? 食べるため?

それも別に間違いじゃないけど、でも、もう一つ大事なことを忘れてると思う。
それは“誰かのため”ということ。

基本的に、あまり目に入らなかったとしても、仕事というのは“自分以外の誰かのためになる”ようになっている。
医者だとしたら、病気の人のため
弁護士だとしたら、法律とかで困っている人のため
看護師だったら、入院している人や病院に来る人のため。お医者さんのためでもあるかもね。

こういったわかりやすいのはいいけど、じゃあ、工場の工員とかはどうだろう。
複雑でわかりにくいかもしれないけど、部品工場の人だったら、その部品を使って作る製品の工場の人のためになって、その製品を買う人のためになる。
食品工場のベルトコンベアの前で働いているとしても、そのパンや弁当や缶詰は、食べる誰かのためになる。

少なくともはっきりしているのは、分業化されて見えにくくなっているとしても、仕事というのは“自分以外の誰かのため”に与えるものである。
逆に言えば、ぼくたちは、自分以外の誰かの仕事の結果を受けて、今、ここに生きている。無人島で1人で住んでいるとか、砂漠の真ん中に1人だとかそういった状況で、着るものもなく裸で、食べ物は自分で採集して・・・という条件でもなければ、誰かの仕事の結果を受けないわけにはいかない。
あなたの着ている服も、食べているものも、誰かが作ったもの。
スーパーで買う野菜だって、誰かが作ってそこに運んでいる。
自分で育てた野菜とはいえ、種は誰かが作っている。
あなたの使っている電気は、誰かが発電している。
寒い時に使うストーブの灯油も、誰かが精製して、家まで持ってきてくれる。

誰かがぼくに対して“仕事の結果”を与えてくれた。
だからぼくは色々な細かいことをしなくてもいい。

ぼくは“手作り食品”を作るのが好きである。
ベーコン・ハム・ぬか漬け・たくあん・にしん漬け・・・・etc
家庭菜園も好きである。

こうやって、多くのものを作ってみると、いくら“手作り食品”とは言っても、誰かがスパイスや塩や、種や、といったものを先に作っていてくれなければ、そもそも作ることはできない。

イエスは“受けるよりも与えるほうが幸い”と言う。
でも、ぼくたちは気づかないうちに、誰かの仕事の結果を“受けて”しまっている。
好むと好まざるとにかかわらず。

ただもらってばかりいると何となく居心地が悪いから“お返し”する。
でも、それだけじゃ何となくあれだから、他の誰かに“贈る”。
こうやって“贈り物”は続いていく。いや、続かせなくてはならない。

“よきサマリア人のたとえ”という有名なイエスのたとえ話がある。
ユダヤ人の旅人が追いはぎに襲われて倒れているところに、祭司、レビ人、サマリア人が通りかかる。祭司、レビ人はスルーしてしまい、ユダヤ人と敵対関係にあるサマリア人がその旅人を助けた、という物語。

美しい物語で、民族なんとかとかに良く使われるけど、ぼくはこの物語のキモは、この話をした後にイエスがかけた言葉「行って、あなたも同じようにしなさい」ということにあるんじゃないかと思う。

イエスは決して“助けてくれた人にお返しをしろ”と言っているのではなく“誰かに対して助けてあげなさい”“贈り物をしなさい”と言っているのだ。

仕事をするのは“自分以外の誰かのため”ということを最初に言った。
そう、だから、どんなに気に食わない仕事だろうと、自分に合わない仕事だろうと、クリエイティブじゃないと思っているにしろ、それは必ず“自分以外の誰かのため”になっているということ。
それを忘れないでいてほしいなぁ、と今、就職活動をしている教会の青年たちを見ながら思うのである。

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Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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