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育った環境に物申す

大学生たちがケンカをしている。
その中身は「田舎モノ!」と言ったとか言わないとか。

話だけ聞くと些細なことに違いないが、いろいろと考えることもあった。

なるほど、確かに言われたその子の育った場所は田舎である。
北国の中でも、“ど”がつくほどの田舎であり、村中全員顔見知り、経済状況やらなんやらまで全部知っていて、学校の一学年が5人とか10人とかそんな環境である。

事実としては、言った子の育った環境と比べれば田舎モノであろう。

しかし、言った子の環境だって、別にすごい都会というわけじゃない。
大都会近郊の町で、人口10万人ほど。
そこそこの町だが、都会と呼ぶには差しさわりがある。

首都圏で生まれ育ったぼくからすれば、結論「どちらも田舎モノ」なのである。
“めくそはなくそ”“五十歩百歩”という言葉がぴったりだ。
(誰かわかっても言っちゃだめですよ。念為)

ただし、ぼくは“彼らのことを田舎モノと呼ぼう”とは思わない。
というより、そんなこと考えたことがなかった。
言ったところで変えようのないことについて指摘したところで何になるのか、と思うからである。

何かで書いたような気もするけど、人は“どこに・いつ”生まれるかを選ぶことができないのだから、それに関して優劣をつけてあれこれ言うのはナンセンスだと思う。

人はそれぞれ育った環境が違う。
それぞれによかったところ、悪かったところもあるだろう。
自分には価値が見えなくても、他の人にはすばらしい価値があるものだということはよくある。

それに、何をいいと感じるかも違う。
それにはいろんな原因があるだろうし、本人の感覚の問題なんだから、それをとやかく言っても仕方がないと思う。

ぼくは首都圏で生まれ育ったけど、別に都会っ子として洗練されたファッションセンスを持っているわけじゃないし(どちらかというとくそダサい)、新宿も渋谷も行ったことがあるけれども、詳しくはないし、おしゃれなお店は苦手である。人ごみも苦手である。
今の音楽シーンに興味もないし、テレビもあまり見ない。
かと言って、外に出かけるわけでもないし、暇さえあればひきこもって本を読んでいる。
んで、北国まで来て何をやっているかというと、畑を耕したり、味噌・梅干・漬物・ベーコンなどなどの手作り食品をのんびり作ったりしている。
子どものころはむしろひ弱なほうだったけど、筋トレにいそしんだり、朝ランニングをしたり、今はそちらのほうが性に合っているというだけの話である。
はっきり言って、大都会の教会よりは、今いる地方の教会のほうが性にあってるなぁと思っている。
ただ単に都会は性に合わないだけなのであるが。

最近、定年後の田舎暮らしがブームらしくて、北国の地方の村にも流入する人がいる。
彼らにとっては、自然が豊かでいいところなんだろうけど、ぶっちゃけ彼らはそこに都会の暮らしを持ち込んでいるだけにしか見えないことがよくある。
そこの村の人間関係にどっぷりはまろうとしたらものすごく気苦労が多いものである。
少なくとも、よそ者のうちはかえって快適なのかもしれない。
でも、彼らにその中で育った苦労はわからんだろうと思う。

でもまぁ、「そういう人たちにはわからない」と言って壁作ってても仕方ないんだけど、それは置いとく。
だって、それはベクトルが違うだけで「田舎モノ!」と言う人たちと変わりがないんだもん。

さてさて、ぼくがちょっと問題だなぁと思ったのは、「田舎モノ」という言葉を発した子の方である。
本人が意識しているのかはわからないが、ぼくには少なくとも“明確に悪意のある”言葉のように聞こえる。

何度も繰り返すけど、本人にどうしようもない状況に関して指摘したりバカにしたりすることは、ものすごい攻撃で、一種の呪いである。

これに対処する方法はぼくは唯一つだと思う。
それは“全力で遠ざかる”ことである。
それを発した人間が、気がついてそれをやめるということはほとんどありえない。
少なくともそれを“事実だからいい”と思っている限りは。
言った人間にとってはただ一度のことだが、少なくとも聞いた人間にとっては一度の出来事にはなかなかならない。
その本人を目の前にするたびに、その言葉がリピートされるような気がしてしまうから。

そうやって、人は呪いにかけられていく。
だから、呪いにかからないように全力で遠ざかるのがいいとぼくは思う。

最近、この手の“呪い”を使う人たちに多く出会うようになった。
仕事柄なのかもしれないけど、でも、教会の中にこの手の人はとっても多い。
立場上、全力で遠ざかることのできない人もいるので、ぼくの頭の中には、この手のプチ○○さんがたくさん住んでいて、ぼくが何かをするたびに口うるさくやかましく言うので、最近ちょっと困っている。
だから呪いって言うんだけど、なかなか解除する方法が見つからない。
ドラクエとかだったら、教会に行って呪いを解いてもらえるんだけど、現実の教会は、むしろ呪いばっかり増やしているのは気のせいか?

育った環境が違うってことは“すごい”ことなのに、だから人は多様なのに、その多様性を受け入れるんじゃなくて、ある一定の枠にはめようってのは、なんて“無粋”なんだろうなぁ。
と、いろいろ考えてしまった6月なのである。
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選ぶこと、捨てること

自らの人生を振り返ってみると“あの時こうしていたら今ここにはいなかったかもしれない”というポイントがいくつかあります。
なぜ、そのように答えたのか、行動したかは、今では思い出せないことも多いのですが、良きにつけ悪しきにつけ、ぼくがここに立っているのは、数多くの選択の結果です。

もし一つでも違う選択をしていれば、ぼくはこの場所に立ってはいないのでしょう。

わたしたちは、何かを決断する時、何かを選ぶと同時に、選ばなかった何かを捨てています。
例えば札幌に行く時、汽車で行くことを選ぶと同時に、バスや自家用車や、あるいは自転車や徒歩で行く可能性を捨てています。
わたしたちは生きている以上、何かを決断しないわけにはいきません。ということは、何かを捨て続けて生きているのです。

“もしあの日、ここに立ち寄っていなければ、今の自分はなかったかもしれない”
人生の分岐路は、道を右に曲がるか左に曲がるかという、ほんのささいな選択の違いで、決まってきたりするものです。
結果を見てから選ぶことはできません。
望むと望まざるとに関わらず、その選択の結果は降りかかってくるのです。必ず。

とあるブログでこんな文章を見かけました。
「日本では、第三子妊娠の場合は70%が中絶されてゆきます。二人兄弟で、学習塾に通わせてもらい、私立大学や遠く離れた大学に通い親から仕送りなどを受けてきた場合、私たちはそうした兄や姉、あるいは弟や妹のいのちの犠牲の上に、豊かな教育機会を与えられてきている可能性があるわけです。」

ぼくはこの文章に非常な違和感を覚える。
なぜなら、その選択は、自分でしたものじゃないから責任の取りようがないし、そんな選択が行われていたということすら知ることがないかもしれないからだ。
こんなことを言われても答えようがないからだ。

この方は、これを“構造的罪”だと言う。
ふざけるな。
“罪”ってなんじゃい!

中絶が罪、というのならまだわかる。(あくまで“まだ”ね。)

でも、それを子どものほうに負わせるのはどうなのよ。
だって、その子は、そのような両親のもとに生まれてくることを選べないんだよ。

ぼくは、自分が答えようがないこと、責任の取りようがないことについての責任を追及するというのは、一種の呪いだと思う。
自分で選んだのじゃないことに、責任の取りようがないことについて考えることは、自分の魂をすり減らすことだ。
自分で自分を“罪がある”と認定して、贖罪するというのは、美しいようにも見えるけど、ぼくには不毛な行為にしか見えない。
そんなことをしても誰も喜ばないんじゃないかな。
そんなことを言い出した人以外はね。

ぼくたちは自分の生まれる時、場所、地域、階級、その他諸々の条件を選ぶことができない。
だけれども、その条件で生まれた以上、その条件でやっていくしかない。

ぼくが日本で生まれたこと、会社員の家に生まれたこと、20世紀に生まれたこと、長男だったこと、これはぼくにとっては選ぶことができないこと。
そのことについて、責任など取りようがない。
選ぶことさえできていないんだから。

どうやって生きてきたかについては、その結果を引き受けることによって一応の責任を果たすことになるけれども、初めの条件についてはどうしようもないではないか。

だからこそ“どう生きるか”ということが大事なのである。
「生まれたところや、皮膚や目の色で、一体このぼくの何がわかると言うのだろう」

畑の管理いろいろ

大分天気もよくなって、気温も高め(でも30℃とかなめてる)なので、畑の作業がはかどります。

まずは、元気の無いキュウリのネット立て。
行灯を外して支柱を立て、ネットに蔓を誘引します。

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あまりに元気が無いので、3日ほど前に液肥を施しました。
うまく伸びてくれるといいのですが、べと病の予感もするので、目が離せません。


そして、トマトの花が咲いてきたので、トマトトーンにてホルモン処理をします。
トマトは一番花に実がつかないと、今後の実つきが悪くなるのです。

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さらに翌日、少々曇り空ですが、とうきびを間引きして一本立ちにした後、中耕、追肥です。

まず、畝と畝の間に化成肥料をまいて
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そこを耕します。
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耕した肥料の混ざった土をとうきびの根元に寄せておきます。
とうきびは背が高くなるので、風などで倒れるのを防ぐためでもあります。
あと、めちゃめちゃ肥料を喰うので、しっかりやっておかないと栄養不足で倒れますから。

というわけで完成。
CIMG0527-1.jpg

さらにじゃがいもも間引きをしつつ、土寄せ。
かわいそうですが、間引きしないと小さなイモばかりになってしまいます。
とは言え、小さなイモもほしいので、1本立ちのと、2本立ちのとを作ります。

そこらじゅうから生えている野良イモは、かわいそうだけど抜きます。
実を見たら赤かったので、アンデスレッドだろうか?

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というわけで汗だくになりながら作業終了。

そしてなんと、もう枯れるかと思っていたキュウリに花が咲きました!!
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何とかなりそうなので、しばらく1週間ごとに液肥を施す方向で行きたいと思います。
とにかく伸びてくれないと・・・。


それから少し心配なのがほうれん草。
CIMG0522-1.jpg

かなり間引きをしたのですが、成長におっつかない上に、どうやらべと病にかかっている株があるようです。
耐病性の品種にしたのですが、原因は密集のし過ぎの上、雨続きで、地面が乾く間もないことだと思われます。
毎日間引いて、信徒さんに配ったり、味噌汁の具にしたりと大活躍なんですが、これ以上調子が悪いと、一気に抜かなきゃならないかも。

さらに、小さいくせにとう立ちしつつある株もあるので、しばらく毎日経過を見守らなくては!

やっぱり、「夜昼寝起きしているうちに収穫」とはいかないようです、イエス様。

牧師に社会経験は必要か



近頃こんなことが言われる。
“牧師が世間知らずで困る”“やっぱり社会経験のある牧師でないと”

ぼくもかつてはそう思っていたし、普通の会社ではないけれども、少しは社会で働いたことがあることで安心していた。

しかし、最近そのことに少々疑問を持つようになった。


なぜなら、たった2~3年の社会経験で、会社とか団体とかの組織がわかってたまるか、と思うからである。
“社会経験があって若い牧師がいい”というのは、かなり矛盾した考えだと思う。
後から牧師になるつもりで勤められるほど、会社というのは、正社員というのは甘いものではない。
(フリーターなら可能だけど)
2~3年で牧師になるので辞めるつもりですという人が、それを表明したうえで採用の面接に受かるとは思えないし、ぼくが人事担当だったらそんなやつは願い下げだ。

本気で勤めて、勤めて、それから方向転換して、牧師になる人というのはそう多くはない、というかほとんどいない。
例えば会社に勤めていて、40台半ばくらいの油の乗った時期に退職して牧師を目指したというなら、その人は間違いなく“社会経験がある”と言えるだろう。
そして、教会という業界の中では間違いなく“若い”
でも、そんな人はレアすぎるくらいレアだ。

だから、“社会経験がある”という場合、“60歳で定年退職して、第2の人生として牧師を目指す”人か、“2~3年勤めた(フリーターとしても含む)後で、牧師を目指す”人の2つに絞られる。
この2つのケースは割とありふれている。(ぼくのそのカテゴリに入るだろう)

でも、定年退職後の人は、それまでの経験が強すぎて、うまく自分を捨てられるとは限らない。
教会は会社ではないから、会社の論理だけでやるなら、かならず振り落とされる人が出る。
逆に、若者の2~3年の経験を“社会経験がある”というには、あまりにお粗末だろう。

それだったら、牧師としての牧会経験が長く、しっかり下積みをして育てていったほうが、後のためにはよいのではないかと思うのだ。
大学(高校)卒業後、すぐに神学校に行き、卒業したら牧会に遣わされる。
場合によっては30代半ばだが、牧会経験10年以上という、牧師だってありえる。
もちろん、多少常識に外れたところがあったとしても、それはその人が信徒の話をきちんと聞く姿勢さえ持っていればいくらでもカバー可能なのではないか。

そもそも、ぼくは“牧師になる前に社会常識を身につけていなくてはならない”という考え方に懐疑的だ。
だって、うちの教派における牧師は、半分出家みたいなものだもの。
というより、それを要求されるというべきか。

なので、むしろ“ちょっとくらい社会常識に欠けている”ほうが、ありがたいのではあるまいか。
支える周りがしっかりしていればいいだけの話である。
(牧師がいろいろな意味で超越している人で、奥さんがあっての牧師さんなんてのはざらにある話だろうと思う。その場合、奥さんの負担は相当なものなんだけど)


理想的な牧師を求めるよりも、“今いる牧師をどうやって使うか”とか“どうやって成長させるか”というほうに考え方を向けたほうが、生産的なんじゃなかろうか。

前にも書いたけれども、ぼくは“キリスト教は目の前の現実に対応するもの”だと思っている。
だから、減点法でないものねだりをするのじゃなくて、手持ちの札でどんな勝負ができるか考えようよ、ということなのである。

というわけでぼくは“牧師には社会経験はあまり必要ではない”と思う。
それよりもよっぽど、人の話を聴くこと、激さないこと、聖書を読んで黙想ができることのほうが大事なんじゃないかなぁ。

畑的交流

畑に行き、ナスに敷き藁を施す。
ついでに伸び始めたスギナを抜きつつ、大き目の雑草を排除。


その頃になると、隣の区画の人たちもやってきて、なにやら作業をしている。


と思ったら話しかけられた。
“その藁、何で敷いてるんですか”

マルチの代わりです。ととりあえず答えておいたけど、そうか、こういったところからもご近所さんとの交流ってあるんだよなぁ、と思いついた今日この頃。


そういえば、イモの芽がぜんぜん出てこないので、ちょっと気になっています。
ところどころは出ているのですが、他のところは全然・・・。

もう種イモは売っていないので、もし生えないとすると、何か別の対策を考えた方がよさそうな気がしてきた。

芽が出た

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少々早く植えすぎたのか、ちょっと寒い日が続いたり、留守にしたりと、かまってあげなかったからか、植えつけたキュウリとトマトの9割が枯れてしまいました。






しかし、今日は、だいぶ暖かくなったし、しばらく気温も安定しそうなので、もう一度植えつけにチャレンジします。
家の中で大きくしたナスもこの際植えつけることにします。

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上からキュウリ、トマト、ナス。

ナスは割と大きくなっているので期待大。
キュウリとトマトはちょっと目が離せない感じです。



畑を見回ってみると、あちこちでこないだ植えた種が芽を出していました。
とうきび
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枝豆
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んで、このちっこいのがほうれん草です
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ついでに草むしりをしっかりして、毎朝見回ることを誓います。
しばらく雨が降らないようなので、水を持っていったほうがいいのかなぁ。

目の離せない毎日が続きそうです。
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北のサムエル

Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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