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楽に生きる

去年の今頃、ぼくは“楽に生きたい”と願っていた。
落ち込んだり浮いてみたり、無理やりにテンションを高めてみたり。

人前に出るのがすごく怖くて、大礼拝も遠慮しようとしていた。
誰も彼もが敵に見えたし、実際にそうだった部分もある。
仕事に関しても、半分はオート自分が作動してこなしていた。

“自分らしくありたい”とか“本当の自分はこうじゃない”とは言わない。
とにかくしんどくて、楽になりたかった。
それが自分で招いたことだとしても。



「若い頃の苦労は買ってでもしろ」とよく言われるし「若い牧師はもっと開拓伝道とかで苦労しなくては強くなれない」とも言われる。
でも、そうやって心をいじめて、苦労に耐えて、嫌いなことをしていくと、人は蝕まれる。

前にも少し“呪い”について書いたけど、これらの言葉も一種の“呪い”だろう。

それらの言葉は正しい。
そして、彼らはそういった人生を生きて生きて、生ききってきた。
けれども、その言葉が人に向けられる時、それはその正しさゆえに“呪い”の言葉となる。

だって、言い返すことも、言い訳することもできないもの。

ぼくは「苦労は買ってまでする必要はないし、自分と同じ苦労は他の人には味わってほしくない」と思う。
それに「人の気持ちは最終的にわかることはできないし、自分の気持ちを簡単にわかってくれる人などいない」と思う。
いや、一時的に共感はできても、最終的には理解し得ないのが他人だ、ということか。

能力とか、愛情とか、そういったものは“苦労したほど伸びる”という神話がある。
いじめていじめて、たたいてたたいて、そうやって立ち上がってきたものが本物だというのだが、ぼくはまったくそうは思わない。

仕事だって、気分悪く仕事をするより、気分よく仕事をしたほうが、自分のできる限りのことをしようと思うし、新しい技能を修得してでも貢献したくなる、そういうものだ。
愛情だってそう。
試練を与えて、ウソついてみたり、振り回してみたり、試してみたりして立ち上がってくるのが本物の愛情ではない。
相手の気持ちを試すためにする、その行為を愛情とはぼくは呼べない。
むしろやさしく見守り、お互いにおずおずと働きかけていくような、そうしないと愛情は育たない。



「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか」

梨木 香歩の小説「西の魔女が死んだ」の中の一節。

誰しも、少し自分が楽になれる場所であったほうが、仕事も愛情も、体調も何もかも、すべてにおいてパフォーマンスがよくなる。
その点、生き物はよくわかっていると思う。

先日、キュウリの苗を植えたのだけれども、上手く根付かずに枯れてしまった。
時期が早かったのもあるだろう。
予想外に霜が降りたのもあるだろう。
そうかと思えばクソ暑い日が続いて、水が足りなかったのもあるだろう。

でも、その環境はキュウリにとって楽な場所ではなかったのは確かだ。
霜がよらないようにキャップをしてもよかったし、水をやってもよかった。
(札幌に行っている間だったのでできなかったんだけど)
ちゃんと育てることができなかった。



もちろん、人間は自分のことはわからないから、仕事をしているうちに、人とつきあっているうちに、だんだんと自分のことに気がついていくのだろう。
だけど、その途中で、“こうしなくてはいけない”という思いから、自分の心の底の、身体の中の声に耳を傾けることができないと、だんだんと弱っていく。
根付かなかったキュウリの苗のように。

だから、多少楽になるために、生活の場所を変えるとか、人付き合いを変えるとか、そういった対策を取ることは、別に悪いことではないと思う。
むしろ、自分にとって不快な対応しかとらない人からは全力で遠ざかればいい。
それが許されているのだから。



我慢は別に美徳ではない。
“楽”に生きると言うと、何となく悪いことのように聞こえるけれども、それは決して悪いことではない。
むしろ、人が生きるために必要なことだ。

それに対して“逃げるな”とか“逃げてはいけない”という人もいるけれども、そいつに関しては全力で無視していいし、そういう人からは遠ざかったらよいと思う。
“逃げる”のではなく“戦略的撤退”ですから。

自分が立てる場所まで、少しは楽に立ち上がれるところまで下がるのは逃げじゃない。戦略的撤退です。
そして、自分が楽になって、立ち向かえるようになってから、また立ち上がればいい。
それに、できないものはできないのです。
別に、みんなができるようにならなくてもいい。
あなたができるのなら、フォローしてあげればいいじゃない。
と、思うんだよね。

だからみんな、もっと“楽に”生きてみようよ。
少なくとも、去年の今頃より、ぼくはとっても楽に生きています。いじょ。
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曽野綾子さんの書いた文庫本『老いの才覚』が、結構売れているようだ。

その中で「くれない指数」という言葉が紹介されていた。

他人に対して「○○してくれない」という不満をもち、また「○○してくれない?」って依存することがそれだとか。
それが多くなってくると、老人としてはどうなのか、というような話。

でもこれ、別に老人だけじゃなくて当てはまると思いませんか。

思い返してみれば、何となく不満な時って、だいたい心の奥底に「あの人がもっとこうしてくれればいいのに」とか、「なんで手伝ってくれないんだろう」とかの「くれない」がうようよしているような気がする。
でもって、「手伝ってくれない?」と声をかけても、なかなか手伝ってもらえなかったりして、ますます不平不満がたまるという悪循環。
あまりに自責的なのもどうかと思うけど、気をつけないとどんどん他責的になってしまうのだなぁ、と思ってしまった。

「なんでわたしのことをもっとわかってくれないの?」
「最近の若いやつはなんでこうしないんだ」
「どうしてわたしの言ったとおりにしないんだ」
「どうしてもっとみんな自主的に動いてくれないんだろう」

わぁぁぁぁぁぁ。
聞いてて、もっともかもしれないけど、しんどくなってきた。

これを聞かされる方はたまったもんじゃないな、と正直に思う。

もしかして、世の中の不満のほとんどが「くれない」なんじゃなかろうか。

実際、何かを始める時には“自分で全部やっちゃう”という覚悟がないとできないなぁ、と思う。
考えてみれば“一人になってもやる”という覚悟を持って始めたプロジェクトには、不思議と手伝ってくれる人がいたりするものだ。

誰かが手伝って“くれる”ことを期待するんじゃなくて、誰かのことを手伝“う”ことから始める方が精神的に健康になれるのだろう。
実際、誰かにお願いするより前に、こちらから何かをしてあげた人にはお願いを聞いてもらいやすい。

だから、賄賂がなくならないのだろうし、計算高いと思われても仕方がないけど、事実だと思う。

というよりも、人は、誰かに無償で、思いがけずに何かをしてもらうことを嫌がる。
お返ししなきゃまずい、と思うから。
健全な反応だけど、やっかいなもの。

まぁ、押し付けにならない範囲だったら、どんどん人に・社会に貢献していったらいいと思う。
その分、社会で誰かが少しでも楽になれるのだったらどんどん人に与えていったらいいと思う。
その方が、自分の周りの雰囲気が良くなって、自分も楽になるし。

ただし、見返りを期待してはいけません。
「○○してあげたのに、お返ししてくれない」では、「くれない指数」が急上昇です。
もちろん、相手が返してくれるのなら、受けましょう。
だって、その贈り物は、受け取られないと贈り物にはなりませんから。
惜しみなく与えましょう。
そして、贈られたなら受けましょう。

“受けるよりは与える方が幸いである”というパウロの伝えたイエスの言葉は、非常に大事だなぁと思う今日この頃です。

これからお父さん・お母さんになる人へ


突然ですが、わたしは“できちゃった結婚”という言葉が嫌いです。
なぜなら、その“できちゃった”と言う言葉づかい、“~~しちゃった”という言葉づかいが気に喰わないからです。

何故気に喰わないのか、それは、その“~~しちゃった”という言葉が「何ほどかの“後悔”や“失敗”を自分がした」という動機を含むからです。

わたしは“子どもができる”ということは非常に尊いことであると思います。
そしてそれは、お父さんもお母さんも“子どもができる位健康であった”ということを示しています。(少し言い方に語弊がありますが)

世界には望んでも子どもができない人がたくさんいます。
男性側に原因がある場合もありますし、女性側に原因がある場合もあるでしょう。
また、原因がなくても、なぜかできない場合もあるかもしれません。
“望んでもできない”ということに比べれば非常に幸せなことである、おめでたいことであると思います。
思いっきり喜んでいい事態だと思うのです。

そしてまた、その“できちゃった”という何ほどか後悔を含む言葉は“生まれてくる子どもにとってよくないのではないか”と思います。

“できちゃった”という言葉は、どちらかというと“事故”のような意味を持ちます。
生まれた子どもが成長し、自分が“できちゃった”という言葉を聞かされるということは、子どもの成長にとっては絶対によくないことです。

自分が生まれたのは事故である。
自分は望まれていたのではなかった。

“できちゃった”という言葉の背後にある意味に、子どもは必ず気がつく時が来ます。

また、夫婦喧嘩などの後、子どもに
「あなたが“できちゃった”から離婚できない」
などという言葉をかけるケースがありますけれども、それこそ最悪の言葉のかけ方でしょう。

否定的な言葉をかけられ続けた子どもは、自分を肯定することができなくなります。
それは、子どもの成長にとって害にしかなりません。
子どもにとっては一種の“呪い”です。

呪いというのは口ヘンで表されるとおり、元来“口”(言葉)で行うものです。
それは相手にとって“ワケのわからない言葉”であり、“自分ではどうすることもできない状況”を示す言葉のことです。

逆に言えば、呪いというのは、わけのわからない言葉でなければならない、ということができるでしょう。
ワケがわかってしまったら呪いになりません。
理解できないけど何となく引っかかる、そういう言葉でなくてはならないのです。

聖書には“呪われよ”という言葉が使われている部分があります。
あの部分は、ギリシャ語で“ウ~ァイ”という単語が用いられています。(敬愛する田川建三先生は“わーい”と訳していたね)
ある人が、誰かに向かって“ウ~ァイ”と声をかけると、その言葉が“ウ~ァイ”と飛んでいってその誰かにまとわりつき、弱らせたり、ある時には殺してしまったりする。
そういう言葉なのです。
もちろん、意味はまったくありません。

繰り返しますが、呪いの言葉に意味ありません。
いや、意味はあるように見えるけど、かけられた本人にはどうすることもできない状況に対する言葉だったり、冷静に考えれば“だからどうした”と思ってしまうような言葉です。

現代では“わたしのことなんかどうでもいいんでしょ”とか“仕事とわたし、どっちが大事なの”とか“お前のためを思って言ってるんだぞ”などの言葉が当てはまるだろうと思います。
こういった言葉も一種の呪いで、これらの言葉はその言葉をかけた人を縛り、自分の支配下に置こうとする言葉です。
これらの言葉は意味があるように見えますが、まったく意味はありません。
彼らの言葉を文字通り真に受けて一生懸命努力したところで、次の言葉が投げかけられ、いつしかその人は判断力を失い、縛られていきます。
もちろん、この言葉の掛け合いは、恋人同士や夫婦間でもよく見られるものです。
でも、こうなった夫婦や恋人同士はあまり続いたためしがないのではないか、わたしはそのように思います。

少々話が脱線しましたが、“できちゃった”という言葉も、わたしはその一つだと思っています。
生まれてきた子どもにとって、自分の存在が“できちゃった”ということはどうすることもできないことです。
唯一できることは、その場からいなくなること、つまり命を終わらせることです。
そうでなければ、彼は自分の存在を肯定できなくなってしまうのです。

子どもがよく、ものを“おとしちゃった”とか“壊れちゃった”と、表現しますが、そういった言葉遣いを学習すると、彼は、自分が“できちゃった”ものであることに気がつきます。
それはおそらく幼稚園に通っているくらいの年齢のはずです。

その時から彼は、自分の存在は許されないのではないか、という問いを抱え込むことになります。
精神的に強い子は乗り越えられるでしょう。
だが、生まれてくる子に向かって、精神的に強くなければいけない、というのは暴論でしかありません。
子どもは、自分の生まれてくるところを選べないのですから。

そういった、自分にはどうしようもできない言葉をかけられ続けると、その言葉はかけられた人を蝕み続け、その人は衰えていきます。
だから“呪い”なんです。

また、この言葉は夫婦になろうとする2人をも蝕んでいきます。
彼らは、計画的に、状況を整えて、子どもを授かった人々とは違い、同じ子どもを授かった身としては大きなハンデを背負っています。
子どもを授かるということは喜ばしいことであるのに関わらず、前者は肯定され、後者は否定されます。

ただでさえ、社会的に後ろ指を指されうる状況の二人に対して“できちゃった”という言葉が呪いの追い討ちをかけます。
初めは喜ばしく感じていたとしても、そんなつもりではなかったとしても、“できちゃった”という言葉の負の力にとらえられ、疲弊していきます。

なぜなら、「子どもを授かった」という事態は、自分たちにとってもはやどうすることもできない事態であり、彼らはその事態に相対するだけで精一杯のはずだからです。

そんな時こそ、その人たちに“おめでとう”と周囲の人たちが声をかけ、何かと準備不足な彼ら彼女らに対して支援してあげることこそが必要なのではないでしょうか。

とあるブログからの受け売りになりますが、わたしはこの場合、“さずかり婚”と呼ぶべきであると考えます。

子どもは“授かるもの”であり、この“さずかる”という言葉には、肯定的な感情が含まれています。
少なくとも“できちゃった”という後悔を含む言葉にはない明るさがあります。

わたしはこの場合にイエスはどうしただろうか、と考えます。
“汝姦淫すべからず”と彼らに悔い改めを迫っただろうか。

否。
彼らにまず“おめでとう”という言葉をかけたのではないか、そして、急激に親になろうとしている2人を見守り、支援したのではないかと思います。

彼らは、その事態に直面しなくてはならない、というだけで十分に社会的責任を負っています。

彼らの前途は多難です。
“さずかり婚”の場合は、準備不足の場合がほとんどでしょう。
子どもが生まれる日程は変えられませんから、その間に両家への挨拶やら式やら届出やらを済ませ、その合間に親になる学びを行う。
通常はこれだけで精一杯のはずです。

その上でさらに、子どもを育てなくてはなりません。

その彼らに対して“できちゃった”という言葉をかけるということは(呪いをかけるということは)、親になる2人だけでなく、生まれてくる子どもをも呪うことになるでしょう。

だから、わたしはこの“できちゃった結婚”という言葉が嫌いです。

いや、“それでも律法に示されている順序が・・・”とか“世間体が・・・”という人は、イエスの誕生についてもう一度考えてみてほしいのです。

イエスの母マリアは“聖霊によって身ごもった”。
しかし、傍からみた客観的事実としては、彼女は誰とも知れない男の種で身ごもったのだととらえられてしまっても仕方がない状態です。(ちょっと語弊はありますが、石投げないでください)
未婚であるのに。
それにもかかわらず、批判されることを承知で、ヨセフはマリアと結婚することにした。
だから彼の行いは気高く尊いのだと思います。

そうやった批判にさらされたことは、聖書中に“マリアの子イエス”という言葉が見られることからも容易に想像がつきます。
通常は“ゼベダイの子ヤコブ”のように、父親の名前が用いられるはずです。
だから、母親の名前で呼ばれるということは、イエスが成長して尚、父の子ではない、という陰口の中で生きていたことを示しています。
それに、イエスはローマ兵の子、という伝承もあるくらいですから。

どうでしょう、あなた方の周りにシングルマザーがいたとして、“この子は聖霊によって生まれた”と言われて、あなたは即座に信じますか。
決して信じないし、そのお母さんは“少し頭がおかしい人”として扱われてしまうのではないだろうか。

わたしはこのように考えます。

石を投げられようが、何しようが、マリアが妊娠していることに変わりはない。
すべてはそこから出発しているのではなかろうか、と。

でなければ、こんな、誤解されるに間違いない文章が聖書に残されるわけがないと思うのです。
だって、文字通り読めば、マリアはただの軽率な女になってしまいます。

それでも、イエスは育ち、周りから冷ややかな目で見られながらも、一家を支えるまでに成長しました。
今よりもむしろ、世間的な風当たりや批判の言葉は強かったのだと思います。
だからこそ、父ヨセフの力は強かったし、彼こそが、イエスは聖霊によって身ごもった神の子である、という信仰者の第一号であっただろうと思います。
ヨセフはイエスが生まれる前にそれを決心していたのに違いないのですから。


だから、この“授かり婚”の場合にも、“わが子は聖霊によって身ごもっている”と思ってほしい。
そのことが、単なる恋人同士を、父であり、母である人に変えていくのです。

そして、これは教会に対しても言えることだと思うのです。
彼らに対する世間的な風当たりは強い。
それを支えてあげることが教会にできること、キリスト者としてあるべき道ではないだろうか。

“律法的にまずい”とか“聖書によれば”と言ったところで、その子がいなくなるわけではありません。
その子の存在を否定するのではなく、生まれてくる子を受け入れ、歓迎することが、その子が育つために絶対に必要だと思うのです。
子どもに必要なのは“できちゃった”という呪いではなく、“あなたは望まれて生まれてきた”という祝福です。(もしくは“あなたが生まれてきてうれしい”という祝福です)

逆立ちしたって元には戻らない事実をあれこれ批評するより、受容し、そのことに祝福を与えていく、そのことこそが教会のとるべき道だと思います。

それでも、子どもに見られないように影で言えばいいではないか、と思っていませんか?
いいえ、子どもは近しい大人の雰囲気に敏感なものですよ。
そして、小耳に挟む力が大きいんですよ。

律法が先にあるのではなく、教会が先にあるのでもなく、聖書が先にあるのでもなく、事実が先にあるのではないのか。
わたしはそのように思います。
そして、こう祈ります。

これから親になる人へ。
“おめでとう。本当におめでとう。神さまがあなたたちを結びつけるために、子どもを授けてくださったことを信じ、よい家庭を築き、元気な子どもを育ててください。神さまの豊かな祝福があなたたちと、そして生まれてくる子どもにありますように”

博士が100人

先日、弟の就職が決まった。

彼は“博士”号を持っているけど、就職がなくて、もう30超えてるからつぶしも利かなくて、こいつ大丈夫か? と思っていたりしたのです。
それに、以前、2~3年前だったか、教授とそりが合わなくて行方不明になってみたりしたので、なおさら心配していた。
もちろん、その時は父と2人で捜索の上、捕まえたわけで、とりあえず行方不明にはならずに済んだけど・・・。

「100人の博士がいる村」という創作童話?がある。
http://www.geocities.jp/dondokodon41412002/index.html

ぶっちゃけ、ものすごくシュールだけど、ほぼ現実を反映してるんだろうなぁ、と思う。
だいたい、大学院に行く人が多い割に、働き口が少ないわけだから、こうなるのも当たり前。
“夢”を見るようなシステムになってるから、途中で降りたくない人が多いのだろう。

能力はある、でも生かす場がない。
結局、能力じゃなくて、人付き合いの上手いやつが職を手に入れたり、出世したりする。
“研究一筋”で、報われる率はとても低いけど、上手くいったりする事例もあるわけで、その夢にすがり続け、結局破綻せざるを得ない人たちが大量に生み出されつつある現状なんだろう。

とりあえず“よかった”と素直に喜ぶと共に、何となくやるせない気持ちになった。
“採用された”という幸運は、“採用されなかった”多くの人たちの屍の上にある。
それがイヤだといったところで、じゃあ、別の誰かのために自分を差し出すことなどできるわけがない。

みんな生きたい。認められたいのだから。



さて、そんなことを考えながら、じゃあ、これが
「100人の牧師がいる村」だったらどうなるんだろうかと考えた。

全くデータに基づいてない、フィーリングだけど
例えば、3人が本を書いたり、講演したりと大成功で年収1000万円以上でしょう
15人が、そこそこ大きな教会に勤めて安泰でしょう。
40人が、普通の教会で可もなく不可もなく牧師として人生を全うするでしょう。
10人は、牧師を途中でやめて、社会に戻るでしょう。
3人は、新興宗教の教祖になるでしょう。
4人が、何らかの犯罪を犯して刑務所でしょう。
15人は、小さな教会でギリギリの生活をしているでしょう。
10人は、燃え尽きて行方不明か、自殺しているでしょう。

とか、こんな感じになるのだろうか。
う~~ん、これ、笑い事じゃないなぁ。

狼少年は正しかった

狼少年のお話は、誰もが一度は耳にしたことのある話だろう。
アイソポスの寓話にある、少年の話だ。

とある村に住んでいたいたずら好きの少年が、狼が来ていないのに「狼が来るぞ!」と夜に叫んで、みんなが右往左往するのを見て喜んでいた。
でも、本当に狼が来た時、彼が「狼が来るぞ!」と叫んでも信じてもらえず、結局彼は狼に食べられてしまった。
確かこんな感じの話じゃなかったかと記憶している。

ウソついていると、いざという時信用してもらえない、というような教訓がついていたような気がする。
それとも、ウソばっかりついてると、それが現実になって困っちゃうぞ、という話だったか。



今改めてこのお話を考えているが、この話は“狼少年は正しかった。ゆえに死ななければならなかった”とも考えられるのではないか。

今の原発がいい例だけど、「地震が来るぞ」という叫びに対して「そんなのは来ない」とか「200年に一度のことの対策を今する必要は無い」と言って取り合わなかった。
そして3月11日の地震で起きた原発の事故。
彼らは“想定外”としか言うことができなかった。
多くの被害を撒き散らしながら。

そしてメディアでは「ほら、いわんこっちゃない」というような言説が目につく。

狼少年は危機を叫ぶ。
しかし、平時であれば、彼はただの基地外として扱われるのだろう。
彼が、己の正しいことを証明しようと思えば、それを証明する手段は一つしかない。
狼が実際に来ること、つまり、彼の訴える危機が現実になることである。
なるべく被害は甚大な方がよい。
“ほれ見たことか”と言えるから。

意識してはいなくても、無意識的に、人は自分の言説の正しさを証明する機会を求めるから、彼らの行動は、危機に突っ込んでいくようになる。
狼少年だって、毎夜外に出ずに、家にいれば死ななかったかもしれない。
しかし、彼は自分の身をもって、自らの死という現実を持って、自分の正しさをある意味で証明したのだ。

だから実は、危機を叫ぶ人たちは実際に対策をする場合にはなかなか動いてくれないことが多い。
もしくは基地外扱いされることに憤慨して、手伝ってくれないこともある。
そしてもし、手を貸してくれる場合でも、より、危機になるように動いてしまう危険が多分にある。(もちろん、半分は無意識的にだけど)
さらに、場合によっては、その集団を危機に陥れるように工作したりしてしまうのだ。
意識的に、あるいは無意識に。



教会の危機が叫ばれて久しい。
昔の教会で用いられたであろう宣教関係の文書には、必ずと言っていいほど「このままだと教会はダメになる」というような危機感をあおるような一文が出てくる。
“あと20年後には教会の数が半分になっている”とか、まぁ色々。

だけれども世界は、教会は、その“狼少年たち”が叫んだよりも良く、でも楽観的だった人々よりは悪く進んでいるのだと思う。



危機にあって、危機を叫ぶ人よりも、冷静に行動する人のほうが生き延びることができるだろう。
完全に浮き足立つのではなく、ある程度落ち着いて行動した方がいい。

教会もそうなのではないか。

今また、教会の危機が叫ばれている。
人数が減っている、高齢化している、聖職のなり手がいない、聖職が崩壊している・・・etc

でもおそらく、20年後に見た時、緩やかな下降線をたどりながら、危機を叫んだ人が言ったよりも良く、楽観的な人が言ったよりも悪く、推移しているのだろうと思う。

危機にあって、危機を叫ぶのではなく、現状を冷静に分析し、手持ちのカードを調べ、じっくりと構えて考える方が、最終的な結果は良いのではないかと思う。

わたしたちの教会の持っているリソースは、もうかなり少ない。
お金だって、それほど多くない。
できることはかなり限られている。

だから、人数が減ってやばいから“どこか人数が増えている教会の方法論を持ってきてやれば”とか“大きな大会を開こう”とか“社会的に目立つ活動をしよう”とか、そういった大きな行動は、もはやできないということを認識するべきだと思う。



わたしは、教会に必要なのは、朝早く、歩道を除雪している人のような働きだと思う。
冬、北国では歩道も埋まってしまって歩きづらい。
車道は市や国が除雪してくれているけど、歩道はそうはいかない。
でも、誰かは知らないけど、毎朝、歩道を除雪してくれる人がいる。
誰よりも早く起きて除雪し、歩く道を整える。
そして、通勤・通学する人がいる頃にはその姿はない。

誰からも感謝されることはないけれども、社会が円滑に動くためには必要な働き。
もちろん、その働きがなくても別に社会は動くけれども、その働きがあることで、より円滑に社会が回るような、少なくとも、少し気持ちよく回るような、そんな働き。
そんな働きができればいいのではないかと思っている。

オーケストラには第一バイオリンがいて、トランペットがいて、フルートがいるけれども、ビオラも、トロンボーンも、ファゴットも、トライアングルも必要である。
その、目立たず、あまりスポットも当たらず、感謝されることもないけれども、そういった人がいないと何となくオーケストラの音に厚みが出ない、そんな働きができればいいのではないだろうか。

そして、誰からも感謝されずにいるけれども、社会として必要だ、ということに心意気を感じてやることができる人々の集まりになれればなぁ、と思うのだ。
“わたしたちに理解されることよりも、理解することを求めさせてください”という、アシジのフランシスの祈りの原点が、こんなところにあるのではないかと思ったりするのだ。


さぁ、自分の手持ちのカードを調べよう。
そして、それを冷静に秤にかけよう。
多分それは、とっても少なくて。
でも、それで、何となく周りが少しだけ気持ちよく感じてもらえるように動くことができるように、頭を、身体を使おう。

多分、わたしたちにはそんなことしかできないから。

社会的インフラとしての宗教団体

東北への支援のために、教会でも募金をしたり、物資を集めたりしている。
で、まぁ、その使い道とかについての説明を求められたのだけれども、その中に??という意見があった。

「これは、東北の被災した信者さんだけに送るものでしょ。(むしろそうでなきゃいけないよね)」
というもの。

もちろん、そんなことはないわけで、例えば炊き出しをしたり、避難所に必要とされるものを届けたり、仮設住宅に入る時にあげたりと、基本的にもれなく全員に分かち合うのが当たり前だと思っていたし、実際にはそのように運用されている。

その意見を聞いたとき、反射的に「何を狭量な」と思ったのだが、“なんでこんな意見が出るのだろうなぁ”と考えてみた。
だってその人は(仮にTさんとしよう)、少々口は悪いけど、周囲の人に対する気遣いだとかは普通に持っているし、それなりに年輪を重ねてもいるわけで、“被災した信者だけ助ける”という考えに固執するような方じゃないと思っていたので。

で、タイトルの「社会的インフラとしての宗教団体」ということが絡んでくるわけだ。

日本ではかつて、生活の基盤は地域共同体(ムラ社会)で、その中で助け合ったり、弱いものを保護したりということをしていた。
もちろんその反面、互いの家に平気で上がり込んだりするなど、プライバシーなどはなく、今から考えるとへんてこかもしれないけど一定のルールがあり、その地域は治まってきた。
そのルールを破った場合“村八分”になったり、共同体から追放されたりするわけだ。

しかし、時代が進むにつれ、人々はどんどん移動するようになり、安全だけど息苦しい“ムラ社会”から飛び出して“都会”に生活の拠点を移す人々が増えた。
そして、今も増え続けているのだけれども。

しかし、生まれた場所の共同体を離れると“つながり”がない。
でも、人はある程度のつながりがないと生きるのが大変だ。
その時に一定の役割を果たしたのが宗教団体である。

キリスト教をはじめ、天理教、金光教、創価学会などの新興宗教が、かつての“ムラ”に代わって、人々のつながりと相互扶助の促進という役割を担った。
だから一時期、教会の人数も増えたし、活動も活発に行われていたし、教会の礼拝出席率もかなりよかったはずだ。
多分、今から40年くらい前までのことじゃなかろうか。

話に聞く限りでは、教会の人々のつながりは結構強く、例えば、ぼくの恩師はかつて独身だった時、教会の婦人会の人が来て、いきなり写真を何枚も渡され「どの子がいいの?」と聞かれたそうだ。(教会員さんの娘さんたちの写真ね)
その先生は、その時「ぼくは一生独身で行きます」と答えたそう。
もちろん、今は素敵な奥さんと共に暮らしているけれど、結婚を決めた時は、“独身で行きますって前に言ってたのに”と結構きつく言われたそうだ。

まぁ例として適切かはわからないけど、このような形でお互いに助け合い(干渉しあい)、かつてのムラ社会よりは干渉度合いが低いけれども、お互いにかかわりあうような集団として、社会的なインフラとして機能してきた。
息子、娘の縁談もその中でやってしまうような、小さな集団。
だから、うちの教派には、どこの教区にも“~~一族”がいて、どこに行っても親戚にあたる、と揶揄的に言われるような状況もある。
もちろん、今はそれも解体しつつあるけれども。

しかし、当時の第一世代の人々はそれでよくても、その下の世代、そのさらに下の世代にとっては、その教会のつながりが閉鎖的な“ムラ社会”のように見えてしまう。
当然と言えば当然である。
彼らはかつての、第一世代たちが飛び出してきた“ムラ社会”を体験してはいないから。

そして、かつて“ムラ”を飛び出したDNAは彼らにしっかりと刻まれているわけで、こうなってくると教会を飛び出すより仕方なくなるわけだ。
もしくは飛び出しはしないものの、教会には顔を出さない信徒が多くなるというわけである。

それで先ほどのTさんの話しに戻るけれども、こう考えるとTさんの意見ももっともで、Tさんの中で教会は“メンバーになっている人の互助組織”でもあるわけである。
いや、むしろそっちの方が強いかも。

また、これは全国にある程度の数の教会がある団体に限られるけれども、転勤族で、地元とのつながりが作りにくい家族にとって、この“互助組織”である点は有利に働く。
少なくとも、何のつながりもなく転勤して、地域に放り出されるよりは、ある程度の共通意識を持つことが可能な集団を、引っ越してすぐ持つことが可能なのだ。
そういったものを持っているかいないかというのは、精神安定上非常に大切な点だと思うのだ。

そしてさらに言えば、人間が持っているつながりって、家族・親族・地域(町内会とか)・国・学校・会社、って感じだろうか。
それぞれにそれぞれのつながりがあって、濃かったり薄かったり、助かったりそうでもなかったりするわけである。
そして、それらにプラスして“宗教”があると、1つ引き出しが増える。
一つ一つのつながりが小さい場合は特にだけど、この1つの引き出しが増えるメリットは大きいのではないだろうか。

これらのことを総合して考えると“全国のうちの教派の人は、助けるべきメンバー”であり“優先的に”ケアしなきゃならないという発想は、不思議でもなんでもない。
なるほどなぁ、と考えてしまった。
それがいいことなのか悪いことなのかは置いといて。

こういった社会的インフラを持っている数が多ければ多いほど、人は生き延びやすくなる。
平時にはうっとうしいだけかもしれないけれども、いざ何かあったとき、こういった組織に属しているか否かというのは、いろいろなものを左右する。
実際問題、阪神淡路大震災の時、教会からも見舞金を信徒に渡している。
それは信徒だけに渡されるもので、信徒だけは「政府からの義援金+教会からの見舞金」を手にすることになり、周りよりも少しだけ、多くお金を手にすることができたわけだ。
まぁ、どうも微々たる額だったらしいけど。

だから、宣教するにあたって、こういうメリットを強調してもいいかもしれないと思った。
けど、近年教会が高齢化で小さくなってきちゃったので、メリットも消えつつあるような気もする。

もちろん、それって信仰と関係ないじゃん、と言われてしまっては元も子もないけれども、教会と言うのはそもそも“純粋な信仰だけ”の集団ではなかったはずなのである。

例えば、使徒言行録6章には、(貧しい者の)食事の世話をするための人々を特別に選んだという話が出てくるし、教会としても、共同体の中の貧しい人々に配慮するということを大切なこととして行ってきた。
国教化されてからは、それがほぼ全員(だってどこに行っても信徒しかいないし)を対象とするものになった。
つまり地域の共同体というものが教会の中に取り込まれていく形で成長してきたわけだ。

例えばイギリスであれば、教会=国の役所の役割であった時期もあるし、現在でもその名残は残っているようだ。
誰も口に出して言うわけではないけれども、教会に限らず、宗教はそういった“社会的インフラ”の役目を果たすものでもあるんですよ、ということはもっと知られてもいいと思うんだけど。

まぁ、それがどれほど役に立つかといっても、平時にはむしろうっとうしいだけだと思われることが多いのが困り物だけど。

花と畑と農作業

朝 9:00 教会のチャイムが鳴る。

月曜日の朝っぱらから珍しいこともあるもんだ、と思ってドアを開けると教会員さんが。
“花、植えよう”


ってなわけで、教会のプランターに花を植えました。

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確かに今日は天気がいいし、今週から暖かくなるので、花を植えるにはいい季節。
というわけで、自分のプランターも物置から引っ張り出してきて飾ります。

パンジー・ベゴニア・マリゴールド

CIMG0485-1.jpg


鮮やかな花が、今年も楽しませてくれそうです。



そして、昼からは、しばらくサボってきた畑に行って、畝を作ります。
ついでにとうきびと、いもを植えました。

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全景です。だんだん畑らしくなってきました。
真ん中へんの支柱は、キュウリとトマトの予定地。

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いもが5列ほど

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こっちがとうきび。やっぱり5列ほどあります。



今回やってみて思ったのですが、この畑は割りと横幅が広く、色々作れそうです。
キュウリとトマトは決めたのですが、結構広く場所が開いてます。

一列はナス。あと枝豆、ほうれん草でいけるかなぁ。

今日気づいたけど、割と土が固くなってしまっていて、肥料をしっかりやらないと厳しそう。

相棒の耕運機・カルチベータ君が使えれば解決するのになぁ・・・と思いつつ、明日か明後日には、キュウリとトマトを植えようと画策中です。


“夜昼寝起きしているうちに種が芽を出す”ように、しっかり寝ようと思うのですよ。

牧師会

昨日は、市内の牧師会があった。


そこそこ大きな都市であれば、キリスト教の教会の2つや3つはあるわけで、大概の都市には“牧師会”というものが存在する。
うちは割とメンバーが多く、カトリックから福音派の教会まで、ある意味まんべんなく交わりを持っている。
神父さんもいるし、もはや“牧師”会じゃないのでは? って突っ込みもあるけど。


このような集まりは割と貴重で、他の教会の(教派の)取り組みや、考え方を知ったりするとても大切な機会だ。



もちろん、ステレオタイプな教派ごとの特色は何となく理解していても、実際にそこの牧師さんに会って話を聞くと、また違った印象を受けたりする。
教派ごとの特色だけじゃなくて、牧師の特色ってのもキリスト教には大事な要素なんだなぁ、と思う。

お互いに誤解や六回はあるのだけれども、何となく話しているうちに理解したり、言葉づかいの違いを考えたり、自分のところを相対化するのは、宣教の上で大切なのだろうと思う。

教会のカルト化が叫ばれるけれども、このような集まりを持つことができる教派・牧師は、(絶対とは言えないけど)ある程度大丈夫なんじゃないかなぁと思っている。

信仰の継承とかあれこれ

今、どこの教会もそうだけど、わりと全体的に高齢化してるんじゃないかなぁと思う。
もちろん、教派によっても教会によっても違うと思うけど、若い人が多くて元気な教会というのは少ない。

確かに、若い人が多い教会もあるけど、その定着具合は決してよくないのではないだろうか。
なぜなら、3~4年後にその教会に行くと、見覚えのある若い人がいないことのほうが多いから。

あくまで例外はあるとしても、どの教会も高齢化が1つの悩み。
んで、おそらく、それは地方の教会であればあるほどしんどいのじゃなかろうか。

そもそも、自分のいる町もそうだけど、ある程度の大きさながら、若い人たちは都会に出てしまう。
札幌だ、仙台だ、そして東京だと。

早ければ高校生からもう、親元を離れて一人都会で暮らす場合もある。


ぼくが子どものころは、まだ路上で遊ぶ子どもも多かったし、教会に行ったとしても一緒に遊ぶ仲間がいた。
日曜学校を開いても来る子どもがいた。
もちろん、都会の大きな教会だったから、学年は違っても、日曜日ごとに夕方まで遊ぶ仲間がいた。
子どもだけで回数券を握りしめて電車に乗り、子どもだけで夕方遅くに帰ってきた。
高学年になってからは10kmくらいあったけど、自転車で行くのにチャレンジしたりした。

まぁ、割と、子どもだけで外に出すことに寛容だった気がする。

でも、これが中学生になり、高校生になると、“部活”ってやつがあって、だんだん仲間たちも来なくなる。
それでも、教区のつながりの中で、他の教会に行ったり、高校の時はすぐに部活をやめちゃったこともあって、何となく教会に行き続けていた。
少なくとも、自分より年の小さい子達は、まだ教会に来れていたから、それと当時教会に住んでいた神学生がおもしろい人だったってのもある。

何となく、あの頃は楽しかった覚えがある。
そして、正直に言ってしまうと、日曜学校で習ったことや、バイブルスタディの内容なんてさっぱり覚えていないし、サボりまくっていた。
礼拝の当番は、いろいろやらされたけど、そんなのはサボって遊びに行きたかった。
当番がないときは、教会には行っていたけど、遊んでて、礼拝にまともに出たことはほとんどない。
決して自慢できることではないのだけれども事実だ。

だけれども、ぼくは今、牧師として、故郷を遠く離れてここにいる。


よく、“信仰の継承のために、子どもたちをきっちり教育する”というようなことが言われる。
でも、そんなことじゃ信仰の継承というのは起こらないと思う。

自分をソースにして語るのもおかしいけど、同世代や少し下で教会に残っている人たちは、だいたい顔見知りで、一緒にバカな事をやっていた仲間がほとんど。
顔を合わせると話すのは“あのころは楽しかったよな”ってこと。

少なくとも、きっちり教育するとかそんなことの前に“教会に来るのが楽しい”と思えることが重要なんじゃないだろうかと思う。
楽しいから教会に来るし、自分を認めてもらえるから残るのだと思う。

その先に、礼拝にきっちり出るとか学ぶとかそういったことがあるのではないか、と思う。
唯一おぼえているバイブルスタディの内容は、イスラエルの歴史についての雑学。
何となくだけど、話が面白かった記憶がある。

楽しいだけじゃダメってのもわかるんだけど、ぼくたちはみんな“未完の賜物”を持っている。
完璧な教会少年とか完璧な教会青年なんて、いつまでもやれるもんでもない。
色々足りなくたっていいじゃないかと思う。
いいじゃないか、楽しいから教会に来るってのも。


もちろん、地方の教会だと同世代の子があまりいないってのも問題。
自分ひとりじゃアレだし、人数が少なくて、しかも気が合わないなら最悪だ。
余計に行きたくないもん。

だから、教会に残っているおじいさん・おばあさんたち、おじさん・おばさんたちにお願い。
教会にもし子どもたちが来てくれているのなら、楽しませてあげてほしい。
そして、バカな話に付き合ってやってくれ。
上から目線で倫理的に正しいことを語るのじゃなくて、ちょっぴり悪いおじさん・おばさんであってほしい。

まぁ、そもそも教会に若い人が来ない場合は・・・、どうしましょ。

河川敷をさまよう

ゴールデンウィークは雨が降って寒くて、とても外に出かけるような陽気でもなかったけど、今日は雨が上がったので、散歩をかねて、河川敷によもぎを探しに行ってみた。

まだ時期的に早かったのか、あまりよもぎが見つからない。
というより、大きくなっていないので、探すのに苦労する。
去年の枯れ草をかき分けながら探すこと2時間。
なんとか一袋分は集まった。

早速今日のうちに加工します。

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まずは広げて、目立つ茎や汚れ、枯れ草や他の葉っぱを取り除いていきます。

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それから流水でしっかりと洗って

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その間になべにお湯を沸かして、重曹を投入。
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そして手早く茹でてから

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灰汁抜きのために水にさらします。

そしてミキサーで細かくして

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ジップロックに入れて冷凍します。

これでとりあえず2~3回分のよもぎを確保。
あと2週間くらい経てば、もう少しよもぎも生長すると思うので、もう一回採ってこようと思います。

来週の市内の牧師会には、いいよもぎだんごが出せそうです。

大きなろうそくを作ってみた

うちの教会に、代々受け継がれてきたらしいちびたろうそくが大量にある。
説教台の下やら、聖書朗読台の下やら、ベストリーの棚の中やら、もう大量に。

邪魔くさいので、何とかしてやろうということで、大きなろうそく作りにチャレンジ。
そうだ、どうせなら、イースターに使う復活のろうそくを作ろう。
もう過ぎちゃったけど。


というわけで、材料を調達。
塩ビパイプ、ろうそくの芯糸、わりばし、潤滑スプレー等々。

で、できたのがこちらの型。
型


長さ1メートル。
底から芯糸を通して、上部に割り箸で固定。
塩ビパイプにはシリコンスプレーを塗って、外しやすいように。
ちゃんと外れなかったら、労力が無駄すぎる、とか思いつつ、作業開始!

まずは、大量のろうそくの切れ端を湯せんしていきます。
湯せん

ちびたろうそくの芯は、ろうが溶けてから丁寧に取り除きます。
こげた部分を切っておくのを忘れたので、少々細かい黒い破片が入っちゃったけどよしとしよう。


んで、溶けたはしからパイプにどんどん流し込んでいきます。

最終的に棚一杯のちびたろうそくをほぼ使いきることができました。
完成?

とりあえず型から外したところ。
シリコンスプレーのおかげか、あっさりとパイプから抜くことに成功。
シリコンが残っていて、表面がえらくぬるぬるです。

完成品

芯を適当な長さに切って、表面を拭いて完成!!
市販の“復活のろうそく”に比べれば、表面はざらついてるし、ところどころに空気が入っているなど、あらが見えますが、遠目から見れば大丈夫・・・だと思う。

あとは、表面に飾り付けをして、復活のろうそくの完成です。
教会員さんに、台を作ってもらおうっと。


・・・問題は作業した台所に大量のろうがたれちゃったことと、予想はしてましたが、ろうを溶かすのに使ったナベが、ろうそく専用になったことです。
やれやれです。
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Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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