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直に冠を被らず

教会において、ちょうど一回りくらい下の若者たちと活動を共にすることが多い。
自分の年齢的なことはさておき、自分と同世代の人がきょに少ないこともあるのだが、同世代の人と話が合わないってこともある。
自分の幼児性をさらけ出してるようでいやだけど。

最近、教会において、教養的なことを口にしても、わかってくれることが少なくなったように感じる。
これは、決して年齢的な傾向ではないと思う。

とある教会で、中高生のキャンプの時、聖餐式の説教を担当させてもらった。
中高生が増えた以外は、その教会のレギュラーメンバー。
御多分に洩れず、平均年齢70歳である。

少しは笑っていただこうと思って、少しネタを折り込んだ。
若い衆にはわからないかもしれないが、「直に冠を被らず」とやったのである。
しかし、誰も笑わなかったし、後でのツッコミもなかった。

後に原稿を見た(説教要旨を教会のサイトに毎週あげてる)父から、「お前、わかって使ってるんだろうな」というツッコミをもらったのみである。
スタッフたちに確認したところ、「そういうことわざがあるんですね」ということだったorz

誰も「梨下に冠を正さず」という故事を知らんのか?
志ん生の落語のネタを知らんのか?

マジか、と思った次第なのである。
この手のネタが使えないとなると、説教の時の話が限られてしまうような気がする。
少なくとも、世代間を横断して笑えるようなネタを提供するのが難しい。

それって、福音を、世代を越えて伝えるのにとっても障害になるのではないだろうか。
そんなことをつらつらと思ったのである。
杞憂ならいいのであるが、世代間の言葉が通じない傾向は、若ければ若いほど顕著であって、かなり気になっているのである。

がんばろ。
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自分のために・誰かのために


仕事って、なんのためにするんだろう?

自分のため? お金のため? 食べるため?

それも別に間違いじゃないけど、でも、もう一つ大事なことを忘れてると思う。
それは“誰かのため”ということ。

基本的に、あまり目に入らなかったとしても、仕事というのは“自分以外の誰かのためになる”ようになっている。
医者だとしたら、病気の人のため
弁護士だとしたら、法律とかで困っている人のため
看護師だったら、入院している人や病院に来る人のため。お医者さんのためでもあるかもね。

こういったわかりやすいのはいいけど、じゃあ、工場の工員とかはどうだろう。
複雑でわかりにくいかもしれないけど、部品工場の人だったら、その部品を使って作る製品の工場の人のためになって、その製品を買う人のためになる。
食品工場のベルトコンベアの前で働いているとしても、そのパンや弁当や缶詰は、食べる誰かのためになる。

少なくともはっきりしているのは、分業化されて見えにくくなっているとしても、仕事というのは“自分以外の誰かのため”に与えるものである。
逆に言えば、ぼくたちは、自分以外の誰かの仕事の結果を受けて、今、ここに生きている。無人島で1人で住んでいるとか、砂漠の真ん中に1人だとかそういった状況で、着るものもなく裸で、食べ物は自分で採集して・・・という条件でもなければ、誰かの仕事の結果を受けないわけにはいかない。
あなたの着ている服も、食べているものも、誰かが作ったもの。
スーパーで買う野菜だって、誰かが作ってそこに運んでいる。
自分で育てた野菜とはいえ、種は誰かが作っている。
あなたの使っている電気は、誰かが発電している。
寒い時に使うストーブの灯油も、誰かが精製して、家まで持ってきてくれる。

誰かがぼくに対して“仕事の結果”を与えてくれた。
だからぼくは色々な細かいことをしなくてもいい。

ぼくは“手作り食品”を作るのが好きである。
ベーコン・ハム・ぬか漬け・たくあん・にしん漬け・・・・etc
家庭菜園も好きである。

こうやって、多くのものを作ってみると、いくら“手作り食品”とは言っても、誰かがスパイスや塩や、種や、といったものを先に作っていてくれなければ、そもそも作ることはできない。

イエスは“受けるよりも与えるほうが幸い”と言う。
でも、ぼくたちは気づかないうちに、誰かの仕事の結果を“受けて”しまっている。
好むと好まざるとにかかわらず。

ただもらってばかりいると何となく居心地が悪いから“お返し”する。
でも、それだけじゃ何となくあれだから、他の誰かに“贈る”。
こうやって“贈り物”は続いていく。いや、続かせなくてはならない。

“よきサマリア人のたとえ”という有名なイエスのたとえ話がある。
ユダヤ人の旅人が追いはぎに襲われて倒れているところに、祭司、レビ人、サマリア人が通りかかる。祭司、レビ人はスルーしてしまい、ユダヤ人と敵対関係にあるサマリア人がその旅人を助けた、という物語。

美しい物語で、民族なんとかとかに良く使われるけど、ぼくはこの物語のキモは、この話をした後にイエスがかけた言葉「行って、あなたも同じようにしなさい」ということにあるんじゃないかと思う。

イエスは決して“助けてくれた人にお返しをしろ”と言っているのではなく“誰かに対して助けてあげなさい”“贈り物をしなさい”と言っているのだ。

仕事をするのは“自分以外の誰かのため”ということを最初に言った。
そう、だから、どんなに気に食わない仕事だろうと、自分に合わない仕事だろうと、クリエイティブじゃないと思っているにしろ、それは必ず“自分以外の誰かのため”になっているということ。
それを忘れないでいてほしいなぁ、と今、就職活動をしている教会の青年たちを見ながら思うのである。

依存症

携帯電話の普及が著しい。
特にiPhoneに代表されるスマートフォンは、今注目のアイテム。
ぼくも変えようかな、と思うけれども、何となく手が出ない、そんな日々を送っている。

ゲームやアプリも発達して、携帯が一台あればテレビは見れるし、ゲームもできる。
ひたすらメールもできる。
考えてみればすごいものだ。


先日まで、教会に通う青少年と所謂“キャンプ”に行ってきた。
大体において中学生高校生になると、もちろん家庭の事情もあるけれども、多くの子が携帯電話を持っている。
小学生で持っている子もいる。

当然、そのキャンプに携帯電話を持ってこないわけがないんだけど・・・。



いくらこの広大な北国とはいえ、よほどの山の中でなければ電波は届く。
キャンプしている場所でも当然届く。

もちろん、一応“ワンセグは禁止”“マナーを守りましょう”という指導はする。
しかし、状況は、ぼくらが考えるよりはるかに先を行っているように思う。


ぼくが初めて携帯電話に類するものを持ったのは大学のとき。
携帯電話はようやく普及し始めた頃で、まだまだ高価だった。
持っていたのは確かDDIのPHS。今のWILCOMの前身。

メールだって初めはカタカナしか打てなかったし、漢字を使えるようになっただけでびっくりした。
他の会社へはメールができなかった。
それからEメールになって、他の会社の携帯にメールができるようになって、絵文字とかも使えるようになって・・・。
今を考えると、“いやはや、発達したものだなぁ”と思う。

高校のときはポケベル、中学のときはそんなものは無かった。

友達とのコミュニケーションは口で、言葉で言う、そんな感じだった。
親に見られながら長電話もできないから、直接会って話すものだった。


だから、キャンプに来てまで携帯をいじっている子を見ていると、理解に苦しむ。
そんなものなくたって、友達とコミュニケーションは取れるはずなんだけど。


キャンプに来ていた一人の女の子は圧巻だった。
初めから終わりまで、礼拝中だろうが食事中だろうがiPhoneを手放さない。
常に持っている。
噴水で遊んでいようが、おやつを食べていようがお構いなし。


“依存症”という言葉が頭にポッと浮かんできた。
携帯は便利な反面、便利すぎて手放せなくなるように開発されている。

開発している人たちの意図は成功してるなぁ、と思う。


子どもたちにとっては生まれたときからあるのが当たり前なもの。
それが存在しなかったことなど想像できない。

メールで友達にいたずらするのが当たり前だし、絵文字を使わない用件だけのメールなんて考えられない。

だからこそ、使い方のマナーを守りましょう、と言いたいところだけど、それを指導するべき先生たちはぼくよりはるかに年上。
荷が重いだろうなぁと思いつつ、大学生の発案で“携帯不携帯”ルールを設定してみた。

半日ほど携帯を取り上げてみたところ、別にコミュニケーションが取れないという感じでもない。
子どもたちの持つ本来的な力に、少し“ほっ”としながら、来年はどうしてくれようかと思う。

こういった新しい文化についていけなくなった時点で、かなりおっさん化してるなぁ、と思う今日この頃なのです。

人生はミスマッチ

大学生の就職活動が始まるのは早い。
早ければ3年生のこの時期から活動を始めている。

自分はまともな就職活動をしたことがないのでよくわからないが、その中には適性検査だったり、エントリーシートだったり、説明会だったり、面接だったりと、さまざまな場面があり、それを突破して彼らは就職をすることができる。
もちろん資格のいる職業の場合は、資格をとり、試験を受けて採用、ということだってあるだろう。

ぼくは紆余曲折を経て、生まれた地を離れて、この北国で牧師をしているが、少なくともわかっているのは“ぼくには牧師の適性が無い”ということである。
どう考えても、向いている理由より、向いていない理由のほうが多く思いつく。
怒りっぽいし、わりと人見知りな方だし、言葉遣いは乱暴だし、頑固で尊大と、よくもまぁ、これほど向いていないことをしているもんだ、と思う。

大学のサークル仲間などは、一瞬固まった後、爆笑だったし、ぼくの母教会の信徒たちは喜びより驚きのほうが強かったように思う。
“あいつは向いてないからやめさせろ!”とありがたいことに方々に言ってくださったご仁もいた。

でも、それで多少の不便を感じたとしてもそれなりに楽しくやれている。

人生それでいいのである。

「わたしたちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。それでもけっこう幸福に生きることができる」(内田樹)

間違いの無い人生など存在しないし、全部うまく選択できるわけも無い。
間違いをしないようにと身を固くしてるより、間違えてもいいからやってみるほうがいい。
それで、間違えて落ち込まなきゃなおいい。

自分は都会で生まれて、特に農作業を見てきたわけでも、手伝わされたわけでもない。
趣味的に、梅干を作ったりベーコンを作ったり沢庵を作ったり、家庭菜園を本格的にやったりしているが、古くからの友人たちは、ぼくがそういったことを趣味にしているのが信じられないようである。
でも、やってみたら面白かったから、以外の理由が見当たらないし、スパイスの調合を考えたり、肥料の頻度を考えたりするのは楽しい。
それに、野菜も手作り食品も、自分で作ったものは格別である。

作ってみてから気がついたが、こういったものは、実は普通に買うほうが安い。
だけど、その手間隙かけたこととか、過程も含めるとpricelessなのである。

はっきり言ってしまえば、自分に向いているか向いていないかを悩んでる時間がもったいない。
仕事だったら頼まれたらイヤとは言えないことも多い。
失敗したとしても、明らかに向いていないぼくに頼んだ人が悪いので、その辺はもちつもたれつで行こうじゃないかと思う。

とりあえず頼まれたり期待されたりしたことをやってみるしかないのである。
頼られるとがんばりたくなっちゃうし。

それに、絶対に自分に適正があって、向いてる唯一無二の仕事なんて無い。
もし向いている仕事をしている人がいるように見えたら、多分その人は、時間をかけてその仕事に向くように、自分を変えてきたんじゃないかなぁと思う。

だから“人生はミスマッチ”だけど、“そのうちマッチしてくるから心配すんな”ということなんである。
まぁ、何十年後かは知らないけど。

ということを、今の若い人たちと教会で付き合いながら思ったのである。まる。
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北のサムエル

Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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