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楽に生きる

去年の今頃、ぼくは“楽に生きたい”と願っていた。
落ち込んだり浮いてみたり、無理やりにテンションを高めてみたり。

人前に出るのがすごく怖くて、大礼拝も遠慮しようとしていた。
誰も彼もが敵に見えたし、実際にそうだった部分もある。
仕事に関しても、半分はオート自分が作動してこなしていた。

“自分らしくありたい”とか“本当の自分はこうじゃない”とは言わない。
とにかくしんどくて、楽になりたかった。
それが自分で招いたことだとしても。



「若い頃の苦労は買ってでもしろ」とよく言われるし「若い牧師はもっと開拓伝道とかで苦労しなくては強くなれない」とも言われる。
でも、そうやって心をいじめて、苦労に耐えて、嫌いなことをしていくと、人は蝕まれる。

前にも少し“呪い”について書いたけど、これらの言葉も一種の“呪い”だろう。

それらの言葉は正しい。
そして、彼らはそういった人生を生きて生きて、生ききってきた。
けれども、その言葉が人に向けられる時、それはその正しさゆえに“呪い”の言葉となる。

だって、言い返すことも、言い訳することもできないもの。

ぼくは「苦労は買ってまでする必要はないし、自分と同じ苦労は他の人には味わってほしくない」と思う。
それに「人の気持ちは最終的にわかることはできないし、自分の気持ちを簡単にわかってくれる人などいない」と思う。
いや、一時的に共感はできても、最終的には理解し得ないのが他人だ、ということか。

能力とか、愛情とか、そういったものは“苦労したほど伸びる”という神話がある。
いじめていじめて、たたいてたたいて、そうやって立ち上がってきたものが本物だというのだが、ぼくはまったくそうは思わない。

仕事だって、気分悪く仕事をするより、気分よく仕事をしたほうが、自分のできる限りのことをしようと思うし、新しい技能を修得してでも貢献したくなる、そういうものだ。
愛情だってそう。
試練を与えて、ウソついてみたり、振り回してみたり、試してみたりして立ち上がってくるのが本物の愛情ではない。
相手の気持ちを試すためにする、その行為を愛情とはぼくは呼べない。
むしろやさしく見守り、お互いにおずおずと働きかけていくような、そうしないと愛情は育たない。



「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか」

梨木 香歩の小説「西の魔女が死んだ」の中の一節。

誰しも、少し自分が楽になれる場所であったほうが、仕事も愛情も、体調も何もかも、すべてにおいてパフォーマンスがよくなる。
その点、生き物はよくわかっていると思う。

先日、キュウリの苗を植えたのだけれども、上手く根付かずに枯れてしまった。
時期が早かったのもあるだろう。
予想外に霜が降りたのもあるだろう。
そうかと思えばクソ暑い日が続いて、水が足りなかったのもあるだろう。

でも、その環境はキュウリにとって楽な場所ではなかったのは確かだ。
霜がよらないようにキャップをしてもよかったし、水をやってもよかった。
(札幌に行っている間だったのでできなかったんだけど)
ちゃんと育てることができなかった。



もちろん、人間は自分のことはわからないから、仕事をしているうちに、人とつきあっているうちに、だんだんと自分のことに気がついていくのだろう。
だけど、その途中で、“こうしなくてはいけない”という思いから、自分の心の底の、身体の中の声に耳を傾けることができないと、だんだんと弱っていく。
根付かなかったキュウリの苗のように。

だから、多少楽になるために、生活の場所を変えるとか、人付き合いを変えるとか、そういった対策を取ることは、別に悪いことではないと思う。
むしろ、自分にとって不快な対応しかとらない人からは全力で遠ざかればいい。
それが許されているのだから。



我慢は別に美徳ではない。
“楽”に生きると言うと、何となく悪いことのように聞こえるけれども、それは決して悪いことではない。
むしろ、人が生きるために必要なことだ。

それに対して“逃げるな”とか“逃げてはいけない”という人もいるけれども、そいつに関しては全力で無視していいし、そういう人からは遠ざかったらよいと思う。
“逃げる”のではなく“戦略的撤退”ですから。

自分が立てる場所まで、少しは楽に立ち上がれるところまで下がるのは逃げじゃない。戦略的撤退です。
そして、自分が楽になって、立ち向かえるようになってから、また立ち上がればいい。
それに、できないものはできないのです。
別に、みんなができるようにならなくてもいい。
あなたができるのなら、フォローしてあげればいいじゃない。
と、思うんだよね。

だからみんな、もっと“楽に”生きてみようよ。
少なくとも、去年の今頃より、ぼくはとっても楽に生きています。いじょ。
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曽野綾子さんの書いた文庫本『老いの才覚』が、結構売れているようだ。

その中で「くれない指数」という言葉が紹介されていた。

他人に対して「○○してくれない」という不満をもち、また「○○してくれない?」って依存することがそれだとか。
それが多くなってくると、老人としてはどうなのか、というような話。

でもこれ、別に老人だけじゃなくて当てはまると思いませんか。

思い返してみれば、何となく不満な時って、だいたい心の奥底に「あの人がもっとこうしてくれればいいのに」とか、「なんで手伝ってくれないんだろう」とかの「くれない」がうようよしているような気がする。
でもって、「手伝ってくれない?」と声をかけても、なかなか手伝ってもらえなかったりして、ますます不平不満がたまるという悪循環。
あまりに自責的なのもどうかと思うけど、気をつけないとどんどん他責的になってしまうのだなぁ、と思ってしまった。

「なんでわたしのことをもっとわかってくれないの?」
「最近の若いやつはなんでこうしないんだ」
「どうしてわたしの言ったとおりにしないんだ」
「どうしてもっとみんな自主的に動いてくれないんだろう」

わぁぁぁぁぁぁ。
聞いてて、もっともかもしれないけど、しんどくなってきた。

これを聞かされる方はたまったもんじゃないな、と正直に思う。

もしかして、世の中の不満のほとんどが「くれない」なんじゃなかろうか。

実際、何かを始める時には“自分で全部やっちゃう”という覚悟がないとできないなぁ、と思う。
考えてみれば“一人になってもやる”という覚悟を持って始めたプロジェクトには、不思議と手伝ってくれる人がいたりするものだ。

誰かが手伝って“くれる”ことを期待するんじゃなくて、誰かのことを手伝“う”ことから始める方が精神的に健康になれるのだろう。
実際、誰かにお願いするより前に、こちらから何かをしてあげた人にはお願いを聞いてもらいやすい。

だから、賄賂がなくならないのだろうし、計算高いと思われても仕方がないけど、事実だと思う。

というよりも、人は、誰かに無償で、思いがけずに何かをしてもらうことを嫌がる。
お返ししなきゃまずい、と思うから。
健全な反応だけど、やっかいなもの。

まぁ、押し付けにならない範囲だったら、どんどん人に・社会に貢献していったらいいと思う。
その分、社会で誰かが少しでも楽になれるのだったらどんどん人に与えていったらいいと思う。
その方が、自分の周りの雰囲気が良くなって、自分も楽になるし。

ただし、見返りを期待してはいけません。
「○○してあげたのに、お返ししてくれない」では、「くれない指数」が急上昇です。
もちろん、相手が返してくれるのなら、受けましょう。
だって、その贈り物は、受け取られないと贈り物にはなりませんから。
惜しみなく与えましょう。
そして、贈られたなら受けましょう。

“受けるよりは与える方が幸いである”というパウロの伝えたイエスの言葉は、非常に大事だなぁと思う今日この頃です。

これからお父さん・お母さんになる人へ


突然ですが、わたしは“できちゃった結婚”という言葉が嫌いです。
なぜなら、その“できちゃった”と言う言葉づかい、“~~しちゃった”という言葉づかいが気に喰わないからです。

何故気に喰わないのか、それは、その“~~しちゃった”という言葉が「何ほどかの“後悔”や“失敗”を自分がした」という動機を含むからです。

わたしは“子どもができる”ということは非常に尊いことであると思います。
そしてそれは、お父さんもお母さんも“子どもができる位健康であった”ということを示しています。(少し言い方に語弊がありますが)

世界には望んでも子どもができない人がたくさんいます。
男性側に原因がある場合もありますし、女性側に原因がある場合もあるでしょう。
また、原因がなくても、なぜかできない場合もあるかもしれません。
“望んでもできない”ということに比べれば非常に幸せなことである、おめでたいことであると思います。
思いっきり喜んでいい事態だと思うのです。

そしてまた、その“できちゃった”という何ほどか後悔を含む言葉は“生まれてくる子どもにとってよくないのではないか”と思います。

“できちゃった”という言葉は、どちらかというと“事故”のような意味を持ちます。
生まれた子どもが成長し、自分が“できちゃった”という言葉を聞かされるということは、子どもの成長にとっては絶対によくないことです。

自分が生まれたのは事故である。
自分は望まれていたのではなかった。

“できちゃった”という言葉の背後にある意味に、子どもは必ず気がつく時が来ます。

また、夫婦喧嘩などの後、子どもに
「あなたが“できちゃった”から離婚できない」
などという言葉をかけるケースがありますけれども、それこそ最悪の言葉のかけ方でしょう。

否定的な言葉をかけられ続けた子どもは、自分を肯定することができなくなります。
それは、子どもの成長にとって害にしかなりません。
子どもにとっては一種の“呪い”です。

呪いというのは口ヘンで表されるとおり、元来“口”(言葉)で行うものです。
それは相手にとって“ワケのわからない言葉”であり、“自分ではどうすることもできない状況”を示す言葉のことです。

逆に言えば、呪いというのは、わけのわからない言葉でなければならない、ということができるでしょう。
ワケがわかってしまったら呪いになりません。
理解できないけど何となく引っかかる、そういう言葉でなくてはならないのです。

聖書には“呪われよ”という言葉が使われている部分があります。
あの部分は、ギリシャ語で“ウ~ァイ”という単語が用いられています。(敬愛する田川建三先生は“わーい”と訳していたね)
ある人が、誰かに向かって“ウ~ァイ”と声をかけると、その言葉が“ウ~ァイ”と飛んでいってその誰かにまとわりつき、弱らせたり、ある時には殺してしまったりする。
そういう言葉なのです。
もちろん、意味はまったくありません。

繰り返しますが、呪いの言葉に意味ありません。
いや、意味はあるように見えるけど、かけられた本人にはどうすることもできない状況に対する言葉だったり、冷静に考えれば“だからどうした”と思ってしまうような言葉です。

現代では“わたしのことなんかどうでもいいんでしょ”とか“仕事とわたし、どっちが大事なの”とか“お前のためを思って言ってるんだぞ”などの言葉が当てはまるだろうと思います。
こういった言葉も一種の呪いで、これらの言葉はその言葉をかけた人を縛り、自分の支配下に置こうとする言葉です。
これらの言葉は意味があるように見えますが、まったく意味はありません。
彼らの言葉を文字通り真に受けて一生懸命努力したところで、次の言葉が投げかけられ、いつしかその人は判断力を失い、縛られていきます。
もちろん、この言葉の掛け合いは、恋人同士や夫婦間でもよく見られるものです。
でも、こうなった夫婦や恋人同士はあまり続いたためしがないのではないか、わたしはそのように思います。

少々話が脱線しましたが、“できちゃった”という言葉も、わたしはその一つだと思っています。
生まれてきた子どもにとって、自分の存在が“できちゃった”ということはどうすることもできないことです。
唯一できることは、その場からいなくなること、つまり命を終わらせることです。
そうでなければ、彼は自分の存在を肯定できなくなってしまうのです。

子どもがよく、ものを“おとしちゃった”とか“壊れちゃった”と、表現しますが、そういった言葉遣いを学習すると、彼は、自分が“できちゃった”ものであることに気がつきます。
それはおそらく幼稚園に通っているくらいの年齢のはずです。

その時から彼は、自分の存在は許されないのではないか、という問いを抱え込むことになります。
精神的に強い子は乗り越えられるでしょう。
だが、生まれてくる子に向かって、精神的に強くなければいけない、というのは暴論でしかありません。
子どもは、自分の生まれてくるところを選べないのですから。

そういった、自分にはどうしようもできない言葉をかけられ続けると、その言葉はかけられた人を蝕み続け、その人は衰えていきます。
だから“呪い”なんです。

また、この言葉は夫婦になろうとする2人をも蝕んでいきます。
彼らは、計画的に、状況を整えて、子どもを授かった人々とは違い、同じ子どもを授かった身としては大きなハンデを背負っています。
子どもを授かるということは喜ばしいことであるのに関わらず、前者は肯定され、後者は否定されます。

ただでさえ、社会的に後ろ指を指されうる状況の二人に対して“できちゃった”という言葉が呪いの追い討ちをかけます。
初めは喜ばしく感じていたとしても、そんなつもりではなかったとしても、“できちゃった”という言葉の負の力にとらえられ、疲弊していきます。

なぜなら、「子どもを授かった」という事態は、自分たちにとってもはやどうすることもできない事態であり、彼らはその事態に相対するだけで精一杯のはずだからです。

そんな時こそ、その人たちに“おめでとう”と周囲の人たちが声をかけ、何かと準備不足な彼ら彼女らに対して支援してあげることこそが必要なのではないでしょうか。

とあるブログからの受け売りになりますが、わたしはこの場合、“さずかり婚”と呼ぶべきであると考えます。

子どもは“授かるもの”であり、この“さずかる”という言葉には、肯定的な感情が含まれています。
少なくとも“できちゃった”という後悔を含む言葉にはない明るさがあります。

わたしはこの場合にイエスはどうしただろうか、と考えます。
“汝姦淫すべからず”と彼らに悔い改めを迫っただろうか。

否。
彼らにまず“おめでとう”という言葉をかけたのではないか、そして、急激に親になろうとしている2人を見守り、支援したのではないかと思います。

彼らは、その事態に直面しなくてはならない、というだけで十分に社会的責任を負っています。

彼らの前途は多難です。
“さずかり婚”の場合は、準備不足の場合がほとんどでしょう。
子どもが生まれる日程は変えられませんから、その間に両家への挨拶やら式やら届出やらを済ませ、その合間に親になる学びを行う。
通常はこれだけで精一杯のはずです。

その上でさらに、子どもを育てなくてはなりません。

その彼らに対して“できちゃった”という言葉をかけるということは(呪いをかけるということは)、親になる2人だけでなく、生まれてくる子どもをも呪うことになるでしょう。

だから、わたしはこの“できちゃった結婚”という言葉が嫌いです。

いや、“それでも律法に示されている順序が・・・”とか“世間体が・・・”という人は、イエスの誕生についてもう一度考えてみてほしいのです。

イエスの母マリアは“聖霊によって身ごもった”。
しかし、傍からみた客観的事実としては、彼女は誰とも知れない男の種で身ごもったのだととらえられてしまっても仕方がない状態です。(ちょっと語弊はありますが、石投げないでください)
未婚であるのに。
それにもかかわらず、批判されることを承知で、ヨセフはマリアと結婚することにした。
だから彼の行いは気高く尊いのだと思います。

そうやった批判にさらされたことは、聖書中に“マリアの子イエス”という言葉が見られることからも容易に想像がつきます。
通常は“ゼベダイの子ヤコブ”のように、父親の名前が用いられるはずです。
だから、母親の名前で呼ばれるということは、イエスが成長して尚、父の子ではない、という陰口の中で生きていたことを示しています。
それに、イエスはローマ兵の子、という伝承もあるくらいですから。

どうでしょう、あなた方の周りにシングルマザーがいたとして、“この子は聖霊によって生まれた”と言われて、あなたは即座に信じますか。
決して信じないし、そのお母さんは“少し頭がおかしい人”として扱われてしまうのではないだろうか。

わたしはこのように考えます。

石を投げられようが、何しようが、マリアが妊娠していることに変わりはない。
すべてはそこから出発しているのではなかろうか、と。

でなければ、こんな、誤解されるに間違いない文章が聖書に残されるわけがないと思うのです。
だって、文字通り読めば、マリアはただの軽率な女になってしまいます。

それでも、イエスは育ち、周りから冷ややかな目で見られながらも、一家を支えるまでに成長しました。
今よりもむしろ、世間的な風当たりや批判の言葉は強かったのだと思います。
だからこそ、父ヨセフの力は強かったし、彼こそが、イエスは聖霊によって身ごもった神の子である、という信仰者の第一号であっただろうと思います。
ヨセフはイエスが生まれる前にそれを決心していたのに違いないのですから。


だから、この“授かり婚”の場合にも、“わが子は聖霊によって身ごもっている”と思ってほしい。
そのことが、単なる恋人同士を、父であり、母である人に変えていくのです。

そして、これは教会に対しても言えることだと思うのです。
彼らに対する世間的な風当たりは強い。
それを支えてあげることが教会にできること、キリスト者としてあるべき道ではないだろうか。

“律法的にまずい”とか“聖書によれば”と言ったところで、その子がいなくなるわけではありません。
その子の存在を否定するのではなく、生まれてくる子を受け入れ、歓迎することが、その子が育つために絶対に必要だと思うのです。
子どもに必要なのは“できちゃった”という呪いではなく、“あなたは望まれて生まれてきた”という祝福です。(もしくは“あなたが生まれてきてうれしい”という祝福です)

逆立ちしたって元には戻らない事実をあれこれ批評するより、受容し、そのことに祝福を与えていく、そのことこそが教会のとるべき道だと思います。

それでも、子どもに見られないように影で言えばいいではないか、と思っていませんか?
いいえ、子どもは近しい大人の雰囲気に敏感なものですよ。
そして、小耳に挟む力が大きいんですよ。

律法が先にあるのではなく、教会が先にあるのでもなく、聖書が先にあるのでもなく、事実が先にあるのではないのか。
わたしはそのように思います。
そして、こう祈ります。

これから親になる人へ。
“おめでとう。本当におめでとう。神さまがあなたたちを結びつけるために、子どもを授けてくださったことを信じ、よい家庭を築き、元気な子どもを育ててください。神さまの豊かな祝福があなたたちと、そして生まれてくる子どもにありますように”

社会的インフラとしての宗教団体

東北への支援のために、教会でも募金をしたり、物資を集めたりしている。
で、まぁ、その使い道とかについての説明を求められたのだけれども、その中に??という意見があった。

「これは、東北の被災した信者さんだけに送るものでしょ。(むしろそうでなきゃいけないよね)」
というもの。

もちろん、そんなことはないわけで、例えば炊き出しをしたり、避難所に必要とされるものを届けたり、仮設住宅に入る時にあげたりと、基本的にもれなく全員に分かち合うのが当たり前だと思っていたし、実際にはそのように運用されている。

その意見を聞いたとき、反射的に「何を狭量な」と思ったのだが、“なんでこんな意見が出るのだろうなぁ”と考えてみた。
だってその人は(仮にTさんとしよう)、少々口は悪いけど、周囲の人に対する気遣いだとかは普通に持っているし、それなりに年輪を重ねてもいるわけで、“被災した信者だけ助ける”という考えに固執するような方じゃないと思っていたので。

で、タイトルの「社会的インフラとしての宗教団体」ということが絡んでくるわけだ。

日本ではかつて、生活の基盤は地域共同体(ムラ社会)で、その中で助け合ったり、弱いものを保護したりということをしていた。
もちろんその反面、互いの家に平気で上がり込んだりするなど、プライバシーなどはなく、今から考えるとへんてこかもしれないけど一定のルールがあり、その地域は治まってきた。
そのルールを破った場合“村八分”になったり、共同体から追放されたりするわけだ。

しかし、時代が進むにつれ、人々はどんどん移動するようになり、安全だけど息苦しい“ムラ社会”から飛び出して“都会”に生活の拠点を移す人々が増えた。
そして、今も増え続けているのだけれども。

しかし、生まれた場所の共同体を離れると“つながり”がない。
でも、人はある程度のつながりがないと生きるのが大変だ。
その時に一定の役割を果たしたのが宗教団体である。

キリスト教をはじめ、天理教、金光教、創価学会などの新興宗教が、かつての“ムラ”に代わって、人々のつながりと相互扶助の促進という役割を担った。
だから一時期、教会の人数も増えたし、活動も活発に行われていたし、教会の礼拝出席率もかなりよかったはずだ。
多分、今から40年くらい前までのことじゃなかろうか。

話に聞く限りでは、教会の人々のつながりは結構強く、例えば、ぼくの恩師はかつて独身だった時、教会の婦人会の人が来て、いきなり写真を何枚も渡され「どの子がいいの?」と聞かれたそうだ。(教会員さんの娘さんたちの写真ね)
その先生は、その時「ぼくは一生独身で行きます」と答えたそう。
もちろん、今は素敵な奥さんと共に暮らしているけれど、結婚を決めた時は、“独身で行きますって前に言ってたのに”と結構きつく言われたそうだ。

まぁ例として適切かはわからないけど、このような形でお互いに助け合い(干渉しあい)、かつてのムラ社会よりは干渉度合いが低いけれども、お互いにかかわりあうような集団として、社会的なインフラとして機能してきた。
息子、娘の縁談もその中でやってしまうような、小さな集団。
だから、うちの教派には、どこの教区にも“~~一族”がいて、どこに行っても親戚にあたる、と揶揄的に言われるような状況もある。
もちろん、今はそれも解体しつつあるけれども。

しかし、当時の第一世代の人々はそれでよくても、その下の世代、そのさらに下の世代にとっては、その教会のつながりが閉鎖的な“ムラ社会”のように見えてしまう。
当然と言えば当然である。
彼らはかつての、第一世代たちが飛び出してきた“ムラ社会”を体験してはいないから。

そして、かつて“ムラ”を飛び出したDNAは彼らにしっかりと刻まれているわけで、こうなってくると教会を飛び出すより仕方なくなるわけだ。
もしくは飛び出しはしないものの、教会には顔を出さない信徒が多くなるというわけである。

それで先ほどのTさんの話しに戻るけれども、こう考えるとTさんの意見ももっともで、Tさんの中で教会は“メンバーになっている人の互助組織”でもあるわけである。
いや、むしろそっちの方が強いかも。

また、これは全国にある程度の数の教会がある団体に限られるけれども、転勤族で、地元とのつながりが作りにくい家族にとって、この“互助組織”である点は有利に働く。
少なくとも、何のつながりもなく転勤して、地域に放り出されるよりは、ある程度の共通意識を持つことが可能な集団を、引っ越してすぐ持つことが可能なのだ。
そういったものを持っているかいないかというのは、精神安定上非常に大切な点だと思うのだ。

そしてさらに言えば、人間が持っているつながりって、家族・親族・地域(町内会とか)・国・学校・会社、って感じだろうか。
それぞれにそれぞれのつながりがあって、濃かったり薄かったり、助かったりそうでもなかったりするわけである。
そして、それらにプラスして“宗教”があると、1つ引き出しが増える。
一つ一つのつながりが小さい場合は特にだけど、この1つの引き出しが増えるメリットは大きいのではないだろうか。

これらのことを総合して考えると“全国のうちの教派の人は、助けるべきメンバー”であり“優先的に”ケアしなきゃならないという発想は、不思議でもなんでもない。
なるほどなぁ、と考えてしまった。
それがいいことなのか悪いことなのかは置いといて。

こういった社会的インフラを持っている数が多ければ多いほど、人は生き延びやすくなる。
平時にはうっとうしいだけかもしれないけれども、いざ何かあったとき、こういった組織に属しているか否かというのは、いろいろなものを左右する。
実際問題、阪神淡路大震災の時、教会からも見舞金を信徒に渡している。
それは信徒だけに渡されるもので、信徒だけは「政府からの義援金+教会からの見舞金」を手にすることになり、周りよりも少しだけ、多くお金を手にすることができたわけだ。
まぁ、どうも微々たる額だったらしいけど。

だから、宣教するにあたって、こういうメリットを強調してもいいかもしれないと思った。
けど、近年教会が高齢化で小さくなってきちゃったので、メリットも消えつつあるような気もする。

もちろん、それって信仰と関係ないじゃん、と言われてしまっては元も子もないけれども、教会と言うのはそもそも“純粋な信仰だけ”の集団ではなかったはずなのである。

例えば、使徒言行録6章には、(貧しい者の)食事の世話をするための人々を特別に選んだという話が出てくるし、教会としても、共同体の中の貧しい人々に配慮するということを大切なこととして行ってきた。
国教化されてからは、それがほぼ全員(だってどこに行っても信徒しかいないし)を対象とするものになった。
つまり地域の共同体というものが教会の中に取り込まれていく形で成長してきたわけだ。

例えばイギリスであれば、教会=国の役所の役割であった時期もあるし、現在でもその名残は残っているようだ。
誰も口に出して言うわけではないけれども、教会に限らず、宗教はそういった“社会的インフラ”の役目を果たすものでもあるんですよ、ということはもっと知られてもいいと思うんだけど。

まぁ、それがどれほど役に立つかといっても、平時にはむしろうっとうしいだけだと思われることが多いのが困り物だけど。
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北のサムエル

Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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