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雨の中、傘をささずに踊るのか

「雨の中、傘をささずに踊る人がいてもいい。自由とはそういうことだ。」(ゲーテ)

人は自分にとって不可解な行動をする人を見ると、眉をひそめたり、注意してみたり、怒ってみたりするのだと思います。
もちろん、それは自分だって例外ではありません。

ですが、とりあえず、“よくわからん”“理解不能”と思ったときは、この言葉を思い出すようにしています。
もしかしたら、その行動にはその人なりの必然性があるかもしれないし、もしかしたら単なる思い付きかもしれないし、でも、それが不思議と楽しそうだったりする、そんなこともあるでしょう。
ぼくにとって実害がなくて、本人が楽しそうであるならば、それをやめさせるべきではないと思います。

誰しもが自由であるのだから、別にどんな奇行をしていても、それをとがめだてする権利は誰にもないことになります。
それは自分にとっても同じこと。

冒頭に上げたゲーテの文章、この2文の間に「だけど、ずぶ濡れになる覚悟はしなくてはいけない。ずぶ濡れになったあと、人に服を貸してくださいとお願いして断られても文句を言ってはいけない。しぶきを飛ばして回りに迷惑かけてはいけない。」というのが入っているものも見つけました。

なるほど、確かに自由だけれども、迷惑はかけるなよ、ということですね。
これも“自由”ということの一つの側面かもしれない。

それにね“どんな人間も、その人なりに論理的に、そして合理的に行動する”ものである、と、ぼくは思います。
“よくわからん”“理解不能”と思ったとき、そいつが“頭がおかしい”と決め付けることは簡単です。
でも多分、いや絶対、本気で“頭がおかしい”人はそういないはずです。

誰もが“自分にとっては論理的”なんです。
その論理が、はたから見ると破綻していたとしても。

だから一応、反射的に反応する前に、その人の持っている理論について考えてみます。
すると、それがおもしろい。

もし、それで自分の仮説が当たっていたとしたら、それはとっても達成感がある。
もし、それで自分の仮説が外れていたとしたら、それは“人間というもの”に対しての深い勉強になる。
そう思うのです。

少なくとも“世の中に論理的じゃない人間などいない”と思ってたほうが、色々、後々、ためになるんじゃなかろうか、と思うのです。
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非国民

“非国民”という言葉を聞くと、戦争を思い出す。
・・・というより、聞いたことのある“戦争の話”を思い出すというべきだろうか。

戦時中、女性がスカートをはき、口紅をつけていると言われたそうだ。
「そんな格好はやめるべきだ。前線で戦っている兵隊さんの苦労を思うべきだ。それがわからないあなたは非国民だ」

今、この言葉を聞いたあなたはどう思うだろうか。
ぼくは、このロジックが“おぞましい”と思う。

そして、戦争は終わり、自由の時代がやってきた・・・ように見える。

が、こういった言動は形を変えて生き残っていると思う。
今だったら「節電しないあなたは非国民だ」だろうか。

とある教会に赴任しているときにかけられた言葉だ。
「おれたちは、週に六日働いて、日曜に教会に来ている。毎日休みがない。そんな人たちはたくさんいる。だから牧師が休みをとったり、ダラダラしているのはいけない。そんなやつは牧師ではない。そんな資格はない」
「信徒の中には、年金暮らしでかつかつの生活の中で献金をしている。あなたは牧師で、その給料は献金の中から支払われているのだから、娯楽にお金を使ってはいけない。そんなやつは牧師ではない。」
「牧師が独身で、若い場合は、可処分所得が多いのだから、給料の半分は教会のために使ったり、慈善事業のために寄付をしたりするべきだ。信徒の中にはかつかつの生活をしている人もいるのだ。それができないやつは牧師になるべきではない」
「牧師が車を持っているのはぜいたくである。百歩譲って車を持つのなら軽自動車にするべきだ。信徒よりいい車を持っているのは、いい牧師ではありえない。」

これらの言動の中に、先ほどの「非国民だ」という言葉と違うロジックがあるなら教えてほしい。
今の節電だってそうだ。
「ほしがりません勝つまでは」という言葉と、何の違いがあるだろうか。

自分がそのように感じて実践するのはいい。
ただ、それを他人に要求するべきではない。
それは、どんな社会的な立場がある人相手でも変わりはない。

ぼくはそう思う。
これらの言葉の背後にあるのは、自らの“絶対正義”である。

例えば、牧師がその言葉によって感化され、生活をつつしみ、給料の半分以上を寄付し、軽自動車に乗っていたとしたら、彼は言うだろう。
「おれは、あいつが若い時に言ってやったんだ」と。

逆に、彼がその忠告に耳を貸さずに何ほどか失敗したとしよう。
そうすれば彼は言うだろう。
「俺の言うことを聞かないからだ」と。

別に失敗しなくとも、言うことを聞かなかったとすれば
「あいつは、もののわかっていないやつだ」と周囲の人に言えばいいだけの話。

自分はいつも正しい位置をキープしていられる。


そんな、高みから降りてこないような言動が、今教会の中にはびこっているのではないか。
そんな牧師の扱いを見てれば、“牧師になりたい”などという奇特な人間が出てこなくて当たり前ではないのか。
もし、万が一いたとしても、そんな状況の教会に放り込まれれば、精神崩壊するんじゃね? と思うのである。

今日の福音書は、種まく人のたとえだった。
通常、このたとえは、「まかれた地(人)がどういう土地(人)かが重要であり、わたしたちはいい土地であるようにしましょう」という言葉だ。
でも、今日話をしたのは、わたしたちがもし、種まく人だとしたら、自分の蒔いた種がどんな地に落ちるかはわからない、という話だった。

なるほど、と思った。
人生は、絶対に、思い通りにはならず、自分がどう思っているかということなど吹き飛ばしてしまうかのような残酷な結果になることもあるものだ。

そして、世界はぼくが思っているよりも広く、ぼくを包み込んでくれる。
ぼくがどう思っているかに関わらず。

世界は絶対に自分の思い通りにはならない。
だからこそ、世界は面白い。
そして、生きている甲斐がある。

ぼくはそう思う

育った環境に物申す

大学生たちがケンカをしている。
その中身は「田舎モノ!」と言ったとか言わないとか。

話だけ聞くと些細なことに違いないが、いろいろと考えることもあった。

なるほど、確かに言われたその子の育った場所は田舎である。
北国の中でも、“ど”がつくほどの田舎であり、村中全員顔見知り、経済状況やらなんやらまで全部知っていて、学校の一学年が5人とか10人とかそんな環境である。

事実としては、言った子の育った環境と比べれば田舎モノであろう。

しかし、言った子の環境だって、別にすごい都会というわけじゃない。
大都会近郊の町で、人口10万人ほど。
そこそこの町だが、都会と呼ぶには差しさわりがある。

首都圏で生まれ育ったぼくからすれば、結論「どちらも田舎モノ」なのである。
“めくそはなくそ”“五十歩百歩”という言葉がぴったりだ。
(誰かわかっても言っちゃだめですよ。念為)

ただし、ぼくは“彼らのことを田舎モノと呼ぼう”とは思わない。
というより、そんなこと考えたことがなかった。
言ったところで変えようのないことについて指摘したところで何になるのか、と思うからである。

何かで書いたような気もするけど、人は“どこに・いつ”生まれるかを選ぶことができないのだから、それに関して優劣をつけてあれこれ言うのはナンセンスだと思う。

人はそれぞれ育った環境が違う。
それぞれによかったところ、悪かったところもあるだろう。
自分には価値が見えなくても、他の人にはすばらしい価値があるものだということはよくある。

それに、何をいいと感じるかも違う。
それにはいろんな原因があるだろうし、本人の感覚の問題なんだから、それをとやかく言っても仕方がないと思う。

ぼくは首都圏で生まれ育ったけど、別に都会っ子として洗練されたファッションセンスを持っているわけじゃないし(どちらかというとくそダサい)、新宿も渋谷も行ったことがあるけれども、詳しくはないし、おしゃれなお店は苦手である。人ごみも苦手である。
今の音楽シーンに興味もないし、テレビもあまり見ない。
かと言って、外に出かけるわけでもないし、暇さえあればひきこもって本を読んでいる。
んで、北国まで来て何をやっているかというと、畑を耕したり、味噌・梅干・漬物・ベーコンなどなどの手作り食品をのんびり作ったりしている。
子どものころはむしろひ弱なほうだったけど、筋トレにいそしんだり、朝ランニングをしたり、今はそちらのほうが性に合っているというだけの話である。
はっきり言って、大都会の教会よりは、今いる地方の教会のほうが性にあってるなぁと思っている。
ただ単に都会は性に合わないだけなのであるが。

最近、定年後の田舎暮らしがブームらしくて、北国の地方の村にも流入する人がいる。
彼らにとっては、自然が豊かでいいところなんだろうけど、ぶっちゃけ彼らはそこに都会の暮らしを持ち込んでいるだけにしか見えないことがよくある。
そこの村の人間関係にどっぷりはまろうとしたらものすごく気苦労が多いものである。
少なくとも、よそ者のうちはかえって快適なのかもしれない。
でも、彼らにその中で育った苦労はわからんだろうと思う。

でもまぁ、「そういう人たちにはわからない」と言って壁作ってても仕方ないんだけど、それは置いとく。
だって、それはベクトルが違うだけで「田舎モノ!」と言う人たちと変わりがないんだもん。

さてさて、ぼくがちょっと問題だなぁと思ったのは、「田舎モノ」という言葉を発した子の方である。
本人が意識しているのかはわからないが、ぼくには少なくとも“明確に悪意のある”言葉のように聞こえる。

何度も繰り返すけど、本人にどうしようもない状況に関して指摘したりバカにしたりすることは、ものすごい攻撃で、一種の呪いである。

これに対処する方法はぼくは唯一つだと思う。
それは“全力で遠ざかる”ことである。
それを発した人間が、気がついてそれをやめるということはほとんどありえない。
少なくともそれを“事実だからいい”と思っている限りは。
言った人間にとってはただ一度のことだが、少なくとも聞いた人間にとっては一度の出来事にはなかなかならない。
その本人を目の前にするたびに、その言葉がリピートされるような気がしてしまうから。

そうやって、人は呪いにかけられていく。
だから、呪いにかからないように全力で遠ざかるのがいいとぼくは思う。

最近、この手の“呪い”を使う人たちに多く出会うようになった。
仕事柄なのかもしれないけど、でも、教会の中にこの手の人はとっても多い。
立場上、全力で遠ざかることのできない人もいるので、ぼくの頭の中には、この手のプチ○○さんがたくさん住んでいて、ぼくが何かをするたびに口うるさくやかましく言うので、最近ちょっと困っている。
だから呪いって言うんだけど、なかなか解除する方法が見つからない。
ドラクエとかだったら、教会に行って呪いを解いてもらえるんだけど、現実の教会は、むしろ呪いばっかり増やしているのは気のせいか?

育った環境が違うってことは“すごい”ことなのに、だから人は多様なのに、その多様性を受け入れるんじゃなくて、ある一定の枠にはめようってのは、なんて“無粋”なんだろうなぁ。
と、いろいろ考えてしまった6月なのである。

牧師に社会経験は必要か



近頃こんなことが言われる。
“牧師が世間知らずで困る”“やっぱり社会経験のある牧師でないと”

ぼくもかつてはそう思っていたし、普通の会社ではないけれども、少しは社会で働いたことがあることで安心していた。

しかし、最近そのことに少々疑問を持つようになった。


なぜなら、たった2~3年の社会経験で、会社とか団体とかの組織がわかってたまるか、と思うからである。
“社会経験があって若い牧師がいい”というのは、かなり矛盾した考えだと思う。
後から牧師になるつもりで勤められるほど、会社というのは、正社員というのは甘いものではない。
(フリーターなら可能だけど)
2~3年で牧師になるので辞めるつもりですという人が、それを表明したうえで採用の面接に受かるとは思えないし、ぼくが人事担当だったらそんなやつは願い下げだ。

本気で勤めて、勤めて、それから方向転換して、牧師になる人というのはそう多くはない、というかほとんどいない。
例えば会社に勤めていて、40台半ばくらいの油の乗った時期に退職して牧師を目指したというなら、その人は間違いなく“社会経験がある”と言えるだろう。
そして、教会という業界の中では間違いなく“若い”
でも、そんな人はレアすぎるくらいレアだ。

だから、“社会経験がある”という場合、“60歳で定年退職して、第2の人生として牧師を目指す”人か、“2~3年勤めた(フリーターとしても含む)後で、牧師を目指す”人の2つに絞られる。
この2つのケースは割とありふれている。(ぼくのそのカテゴリに入るだろう)

でも、定年退職後の人は、それまでの経験が強すぎて、うまく自分を捨てられるとは限らない。
教会は会社ではないから、会社の論理だけでやるなら、かならず振り落とされる人が出る。
逆に、若者の2~3年の経験を“社会経験がある”というには、あまりにお粗末だろう。

それだったら、牧師としての牧会経験が長く、しっかり下積みをして育てていったほうが、後のためにはよいのではないかと思うのだ。
大学(高校)卒業後、すぐに神学校に行き、卒業したら牧会に遣わされる。
場合によっては30代半ばだが、牧会経験10年以上という、牧師だってありえる。
もちろん、多少常識に外れたところがあったとしても、それはその人が信徒の話をきちんと聞く姿勢さえ持っていればいくらでもカバー可能なのではないか。

そもそも、ぼくは“牧師になる前に社会常識を身につけていなくてはならない”という考え方に懐疑的だ。
だって、うちの教派における牧師は、半分出家みたいなものだもの。
というより、それを要求されるというべきか。

なので、むしろ“ちょっとくらい社会常識に欠けている”ほうが、ありがたいのではあるまいか。
支える周りがしっかりしていればいいだけの話である。
(牧師がいろいろな意味で超越している人で、奥さんがあっての牧師さんなんてのはざらにある話だろうと思う。その場合、奥さんの負担は相当なものなんだけど)


理想的な牧師を求めるよりも、“今いる牧師をどうやって使うか”とか“どうやって成長させるか”というほうに考え方を向けたほうが、生産的なんじゃなかろうか。

前にも書いたけれども、ぼくは“キリスト教は目の前の現実に対応するもの”だと思っている。
だから、減点法でないものねだりをするのじゃなくて、手持ちの札でどんな勝負ができるか考えようよ、ということなのである。

というわけでぼくは“牧師には社会経験はあまり必要ではない”と思う。
それよりもよっぽど、人の話を聴くこと、激さないこと、聖書を読んで黙想ができることのほうが大事なんじゃないかなぁ。

狼少年は正しかった

狼少年のお話は、誰もが一度は耳にしたことのある話だろう。
アイソポスの寓話にある、少年の話だ。

とある村に住んでいたいたずら好きの少年が、狼が来ていないのに「狼が来るぞ!」と夜に叫んで、みんなが右往左往するのを見て喜んでいた。
でも、本当に狼が来た時、彼が「狼が来るぞ!」と叫んでも信じてもらえず、結局彼は狼に食べられてしまった。
確かこんな感じの話じゃなかったかと記憶している。

ウソついていると、いざという時信用してもらえない、というような教訓がついていたような気がする。
それとも、ウソばっかりついてると、それが現実になって困っちゃうぞ、という話だったか。



今改めてこのお話を考えているが、この話は“狼少年は正しかった。ゆえに死ななければならなかった”とも考えられるのではないか。

今の原発がいい例だけど、「地震が来るぞ」という叫びに対して「そんなのは来ない」とか「200年に一度のことの対策を今する必要は無い」と言って取り合わなかった。
そして3月11日の地震で起きた原発の事故。
彼らは“想定外”としか言うことができなかった。
多くの被害を撒き散らしながら。

そしてメディアでは「ほら、いわんこっちゃない」というような言説が目につく。

狼少年は危機を叫ぶ。
しかし、平時であれば、彼はただの基地外として扱われるのだろう。
彼が、己の正しいことを証明しようと思えば、それを証明する手段は一つしかない。
狼が実際に来ること、つまり、彼の訴える危機が現実になることである。
なるべく被害は甚大な方がよい。
“ほれ見たことか”と言えるから。

意識してはいなくても、無意識的に、人は自分の言説の正しさを証明する機会を求めるから、彼らの行動は、危機に突っ込んでいくようになる。
狼少年だって、毎夜外に出ずに、家にいれば死ななかったかもしれない。
しかし、彼は自分の身をもって、自らの死という現実を持って、自分の正しさをある意味で証明したのだ。

だから実は、危機を叫ぶ人たちは実際に対策をする場合にはなかなか動いてくれないことが多い。
もしくは基地外扱いされることに憤慨して、手伝ってくれないこともある。
そしてもし、手を貸してくれる場合でも、より、危機になるように動いてしまう危険が多分にある。(もちろん、半分は無意識的にだけど)
さらに、場合によっては、その集団を危機に陥れるように工作したりしてしまうのだ。
意識的に、あるいは無意識に。



教会の危機が叫ばれて久しい。
昔の教会で用いられたであろう宣教関係の文書には、必ずと言っていいほど「このままだと教会はダメになる」というような危機感をあおるような一文が出てくる。
“あと20年後には教会の数が半分になっている”とか、まぁ色々。

だけれども世界は、教会は、その“狼少年たち”が叫んだよりも良く、でも楽観的だった人々よりは悪く進んでいるのだと思う。



危機にあって、危機を叫ぶ人よりも、冷静に行動する人のほうが生き延びることができるだろう。
完全に浮き足立つのではなく、ある程度落ち着いて行動した方がいい。

教会もそうなのではないか。

今また、教会の危機が叫ばれている。
人数が減っている、高齢化している、聖職のなり手がいない、聖職が崩壊している・・・etc

でもおそらく、20年後に見た時、緩やかな下降線をたどりながら、危機を叫んだ人が言ったよりも良く、楽観的な人が言ったよりも悪く、推移しているのだろうと思う。

危機にあって、危機を叫ぶのではなく、現状を冷静に分析し、手持ちのカードを調べ、じっくりと構えて考える方が、最終的な結果は良いのではないかと思う。

わたしたちの教会の持っているリソースは、もうかなり少ない。
お金だって、それほど多くない。
できることはかなり限られている。

だから、人数が減ってやばいから“どこか人数が増えている教会の方法論を持ってきてやれば”とか“大きな大会を開こう”とか“社会的に目立つ活動をしよう”とか、そういった大きな行動は、もはやできないということを認識するべきだと思う。



わたしは、教会に必要なのは、朝早く、歩道を除雪している人のような働きだと思う。
冬、北国では歩道も埋まってしまって歩きづらい。
車道は市や国が除雪してくれているけど、歩道はそうはいかない。
でも、誰かは知らないけど、毎朝、歩道を除雪してくれる人がいる。
誰よりも早く起きて除雪し、歩く道を整える。
そして、通勤・通学する人がいる頃にはその姿はない。

誰からも感謝されることはないけれども、社会が円滑に動くためには必要な働き。
もちろん、その働きがなくても別に社会は動くけれども、その働きがあることで、より円滑に社会が回るような、少なくとも、少し気持ちよく回るような、そんな働き。
そんな働きができればいいのではないかと思っている。

オーケストラには第一バイオリンがいて、トランペットがいて、フルートがいるけれども、ビオラも、トロンボーンも、ファゴットも、トライアングルも必要である。
その、目立たず、あまりスポットも当たらず、感謝されることもないけれども、そういった人がいないと何となくオーケストラの音に厚みが出ない、そんな働きができればいいのではないだろうか。

そして、誰からも感謝されずにいるけれども、社会として必要だ、ということに心意気を感じてやることができる人々の集まりになれればなぁ、と思うのだ。
“わたしたちに理解されることよりも、理解することを求めさせてください”という、アシジのフランシスの祈りの原点が、こんなところにあるのではないかと思ったりするのだ。


さぁ、自分の手持ちのカードを調べよう。
そして、それを冷静に秤にかけよう。
多分それは、とっても少なくて。
でも、それで、何となく周りが少しだけ気持ちよく感じてもらえるように動くことができるように、頭を、身体を使おう。

多分、わたしたちにはそんなことしかできないから。
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プロフィール

北のサムエル

Author:北のサムエル
とある北国のとある地方都市で働くキリスト教の牧師です。思いついたこと、感じたことを、気の向くまま、心の向くままに書き散らします。

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